日本キリスト教会 房総君津教会@ 本文へジャンプ
 特別伝道礼拝−1

2008年4月13日 特別伝道礼拝説教(習志野教会牧師 小坂宣雄先生)

「イエスの言われた言葉を信じる信仰」
  イザヤ書55章8〜11節
  ヨハネによる福音書4章43〜54節

 今年は房総君津教会の教会建設50周年記念ということで、この伝道のための礼拝にお招きを受け、その記念の時を共にする機会を与えられまして、心から喜びと感謝を表したいと思います。と申しますのは、房総君津教会が教会建設10周年を記念して、開拓伝道をして出来たのがわたしが現在仕えている習志野教会だからでございます。この度、贈られてきましたこの『房総君津教会五十周年記念誌』にそのことが記されておりますが、房総君津教会は習志野教会にとりまして母なる教会でして、その産声をあげた時のことを、これを読ませていただいて感慨深いものがありました。心から習志野教会として感謝を表したいと思います。

 いまヨハネによる福音書4章の43節から54節のところをお読みいただきました。このところは『新共同訳聖書』の小見出しにありますように、主イエスという方が役人の息子をいやしたという出来事が記されているところで、この出来事を中心に御言葉に聞きたいと思います。教会とはどういうところか、初めての方や求道中の方がおられるかも知れませんが、教会とはいつも変わらずに聖書が開かれ、主イエスのことが語られるところでして、今朝もそのようにしたいと思います。早速でございますが、主イエスが役人の息子をいやすという中心的な出来事である46節後半から50節のところを読んでみましょうか。

 「さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる』。その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」
 この46節の後半のところに、「さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった」と記されておりまして、この人はカファルナウムにある当時のヘロデ・アンティパス王に仕える役人だったようです。この人は主イエスが「ユダヤからガリラヤに来た」と聞いてイエス様のもとに行き、カファルナウムまで来て、自分の息子をいやしてくだささるように頼んだのでした。具体的には、ガリラヤのカナという町だったのですが、イエス様はそこでかつて忘れ難い出来事を経験しておられたのであります。
 わたしの教会にもこのカナからお子さんにカナという名前をつけている方がおりますが、イエス様はこのカナの町でかつて結婚式に出席していた時、当時のユダヤの結婚式は何日も続いたようでありますが、ぶどう酒がなくなってしまいました。その時、イエス様は母のマリアに頼まれまして、水をぶどう酒に変えるという奇跡、ヨハネ福音書では「しるし」と言い表していますが、そういう出来事を行った町であります。 主イエスはこのようなことからも分かりますが、それこそ土壇場で私たちが必要とする救いを実現する方で、このガリラヤのカナでの二度目の出来事もそうであります。この日、王の役人がカファルナウムからカナに来たということですが、それはただ来たというのではなくて、飛んで来たということでありましょう。

 イスラエルの地図を開くと分かるのですが、この人が住むカファルナウムというところは、ガリラヤの湖沿いの低いところにある町でございます。もう一方のカナの町は標高600mという高い所にある町です。そのカファルナウムからカナへの直線距離も30kmほどあります。ですから、ちょうど一山越えるような登り坂を丸一日かけて登ってきたことになります。
 この王の役人は主イエスがカナの町に来たと聞くや否やカファルナウムからカナまでの上り坂を我を忘れてイエス様の所に飛んで来て、イエス様に頼んだということであります。自分の住んでいるカファルナウムまで下って来て「息子をいやして下さるように頼んだ」ということであります。この「息子をいやしてくださるように頼んだ」ということや、その「息子が死にかかっていた」というその「息子」という言葉には「小さい子供」という意味の言葉が用いられております。まあ、自分のまだ小さい掛け替えのない息子が突然病気にかかる、しかも死にかかっているというような病気にかかった時、どんな親でも自分がその子の代わりになってあげられればと思うほど、本当にあわてふためいてしまうのではないでしょうか。この王の役人のように一目散に医者に駆け込むのではないでしょうか。
 主イエスに頼むということは何か私たちも必ず遭遇するところの土壇場の場面と別な場面ではないということであります。愛する掛け替えのないわが子が病気になり、しかも私たち人間の手には負えない、どうしてもその土壇場では人間を越えたところの、この父親がしたように、イエス様のところに飛んで行って頼む以外にないことであります。そして、このイエスという方は、このようなことの内に表れているのですけれども、私たち人間以上の方なのですね。
 イエス様のことを“More than Man”という表題で書かれた英語の本を読んだことがありますが、この「人間以上の方」こそ死にかかっている者の救いを最後的・究極的に解決できる方であります。主イエスという方こそそのような方であります。
 実の所、この場面はイエスという方が、そのような方であることを明らかにしようとしているのであります。しかし、ここで一つ注意しておきたいことは、このことが今日の場面が家族のこととして起っているということも大変大事だということです。今日の最後の53節のところをご覧いただくと記されておりますが、「そして、彼もその家族もこぞって信じた」とあります。父親が飛んで行って主イエスに頼んだ。その時、掛け替えのない愛する息子がいやされ、救いを得たということが、父親と一緒に家族もこぞってイエスを信じるということをもたらしのであります。

 今日、家族の崩壊が叫ばれております。親が自分の子を殺し、また子が自分の親を殺すという悲惨な事件がたまに起こっているというのではなくて、日常的に繰り返されているのではないでしょうか。家族こぞって主イエスを信じることの幸と大切さを私たちは思うべきであります。
 さて、48節のところに戻りますが、主イエスはこの父親にこのように語りかけております。「あなたはしるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われましたが、なぜこのように言われたのでしょうか。イエス様はガリラヤ一帯をご自分の故郷と呼んでおられますが、そのことは44節を見ていただくと分かります。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」とありますが、ここでイエス様の言われる「預言者」というのは、ここでは未来のことを予め語るという「予言」ではなくて、言葉を「預かる」という文字が用いられております。つまり、聖書で言う預言者というのは、神の言葉を預かって、あるいは託されて告げる者のことであります。ですから、預言というのは神の言葉を預かって告げられた言葉でして、言うならば神の権威と力を持っているということであります。
 そのような神の言葉として信じなければならなかったのであります。ところが、故郷では生まれながらに知っていて、自分とあまり変わらないただの人間が語るわけでありますから、その人が語る言葉が例外的に神の言葉であると信じることはなかなか出来ないことであったということであります。むしろ、語られる神の言葉や権威を信じるよりも、何か目を見張るような、それこそ超能力の現れであるようなしるしや不思議な業というようなものを、人間は見たがるわけであります。信じるよりは、見れば信じるというようになってしまうわけで、それでは聖書が求めている本来の意味での神の言葉を信じるといういことには決してなりません。

 いま「預言者」のことを神の言葉を預かって告げる人のことだと申しましたが、イザヤ書55章は預言者が告げる神の言葉のこと、神の権威、神の力について記されているところでございます。ここは預言者イザヤを通してでありますが、イザヤは神の言葉を預かって、託されて告げているところでして、実は神ご自身が語られているところであります。
 「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしの与えた使命を必ず果たす」と語りかけられております。
 神様が語られる神の言葉とは神の権威と力を持っており、ここでイエス様が言われておられることも、このことなんですね。イエス様は王の役人にご自分が語る言葉を信じること、ご自分の口から出るその言葉が空しく戻ることはないのであって、必ずその通りに成し遂げられ、使命の果たされることを信じることをこの人や私たちに求めておられるということでございます。
 この王の役人はイエス様に「主よ、子供が死なないうちにおいでください」とそれこそ目に見えるしるしと不思議な業を願ったのですけれども、しかしイエス様の答えはそうではなかったのでした。50節のところにありますが、「イエスは言われた、『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』 その人はイエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」 イエス様はただその言葉をもって答えただけであります。そして、この人は「イエスの言われた言葉を信じて帰って言った」のでした。

 教会に来られてクリスマスになって主イエスの誕生の季節に入りますとよく読まれる聖書の箇所の一つに、このヨハネによる福音書の1章14節の言葉があります。 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
この「言」というのは神の言葉のことです。旧約聖書の中で預言者たちが語ってきたその神の言葉です。その神の言葉が「肉」をとり、つまり、私たちと同じ肉体をとり、人間となって私たちの間に宿った。これがクリスマスのイエス様誕生の出来事であります。  
 先程イエス様のことを「人間以上の方」と言いましたが、主イエスは天から私たちのところに下って来られた神の言葉であります。ですから、主イエスの口から出る神の言葉は「むなしく天に戻る」ということはありません。この地上で望むことを成し遂げるのです。その使命を必ず果たすのです。
 この父親はイエスという方の「あなたの息子は生きる」と言われたその神の言葉の力、その権威を感じ取ったに違いありません。ですから、主イエスの言われたその言葉を信じて、帰って行ったのであります。帰る途中、この父親を僕たちが迎えにきたようです。そして、死にかけていたその愛する息子が生きているということを知らせました。それはイエスという方が「あなたの息子は生きる」と言われたその言葉が語られたのと同じ時刻であったということであります。神の言葉が語られたその同じ時刻、その瞬間にきちんと御業が成し遂げられたのでありました。
 この神の言葉の出来事はただこの息子の肉体上のいやしに止まりません。「あなたの息子は生きる」と言われましたが、その「生きる」という言葉にはヨハネ福音書の中でとても重要な言葉が用いられています。礼拝の招きの言葉で読まれた所にも出てきますが、「わたしたちの間に宿る」ことをしたイエス様だけがもたらすことのできる「永遠の命」という意味が込められて「生きる」という言葉が用いられています。 ここではイエス様は王の役人に「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という風に言われているのでありますが、他のところでは「わたしを信じる者は生きる」と、死なないで永遠の命を生きるという風に言われております。私たち人間の地上の命は、この息子がそうであったように、病にもかかります。死にかかるということもあります。そのようにして、必ず衰えて行きます。滅んでゆきます。
 それに引き換え、イエス様の「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われた権威ある言葉はその通り、死にかかっていた息子の命を生き返らせますが、その命には永遠の命が含まれています。生き返ったところのその命はこの私たちにとりまして、もう一度与えられて生まれ変わるところの永遠の命のことです。イエス様はそのような永遠の命をこの世界にもたらし、与える方として、神の言葉として私たちの間に宿られたということであります。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を、イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためであ  ます。必ずこの肉体が滅びるという形でる」(3章16節)と言われている通りであります。

 イエス様のご生涯は教会に来ると、くどいほどに繰り返し語られますが、十字架と復活の御業のことであります。イエス様は十字架と復活の御業を通して、この私たちを罪から清めて、新しく生まれ変わって生きることができるように永遠の命を実現してくださったということであります。神の言葉であるイエス様だけが、このことを成し遂げました。このことを果たされました。神の言葉であるイエス様はむなしく天に戻られることはなかったのであります。帰るということはありませんでした。永遠の命を私たちにもたらすためにそのことをなし終え、果し終えて天の父の身許に帰られたのであります。
 永遠の命とは、単なるこの地上の肉体のいやしのことだけではありません。むしろ地上を越えての天上に連なり、神共にいますところの永遠の命のことであり誰もが生涯を閉じます。しかし、この世ですべてが終わるのではなく、来るべき世があります。ここで用いられている永遠の命とは来るべき「世々にわたる命」と表現されております。世々に神と共に生きる、祝福に連なる命が永遠の命です。イエスの言葉を信じて帰る時、この永遠の命がすでにこの私たちのうちに始まっているのであり、もたらされているのであります。
 最初に申し上げましたように、教会とはどういうところかであります。初めての方々も長く教会生活を続けている教会員の方々も、日曜日ごとに礼拝の中で聖書が開かれて、主イエスのことがたんたんと語られるのでありますが、イエスの言われた言葉を信じて帰る時、この地上ではいつか滅んで死ぬところの肉体を持つ私たちに、これはなくてならない救いであります。なくてはならないいやしであります。その永遠の命が始まり、もたらされているということであります。