日本キリスト教会 房総君津教会@ 本文へジャンプ
 特別伝道礼拝−3

2008年6月15日 特別伝道礼拝説教(南柏教会牧師 中島英行先生)

「安心しなさい。わたしがいる」
  出エジプト記14章15〜18節
  マタイによる福音書14章22〜33節

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。今朝与えられましたマタイによる福音書14章27節にこう記されています。それは主イエスが恐怖に震えおののいている弟子たちに語られた御言葉であります。
 「安心しなさい」とは、口語訳聖書では「しっかりしなさい」と訳されております。また、ヨハネによる福音書16章33節では、「勇気を出しなさい」とも訳されています。また、「わたしだ」とは「わたしがある」、「わたしがいる」とも訳される言葉であります。つまり、主イエスが恐怖に震えおののいている弟子たちのただ中に、「彼らと共にわたしがいる」という意味であります。恐怖に震えおののいている弟子たちに向かって「安心しなさい。しっかりしなさい。勇気を出しなさい。あなたがたと共にわたしがいる。それゆえに、恐れることはない」と、言われたのであります。 それでは、弟子たちは何に恐怖を抱き震えおののいていたのでしょうか。それは主イエスの命令に従い、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、弟子たちが向こう岸に先にこぎ出した時のことです。彼らが乗った小さな舟は教会を表しています。教会は主イエスの命令に従い、小さな舟に乗って広い大きな海にこぎ出したのであります。海は大きく深いすべてを飲み込んでしまう不気味な海であります。その航海は必ずしも順風の時ばかりではありません。突然の大嵐に見舞われ、漁師であった弟子たちも恐怖に震えおののくこともしばしばであったのであります。
 彼らの慣れた経験も知識もしばしば何の役にも立たないと思われたに違いありません。しかも、時は夕方から夜になり、辺りを不気味な暗黒が覆っていました。弟子たちの小さな舟は嵐の海にこぎ出して、湖の真ん中あたりに来ていました。その時、暗闇をついて突然大嵐が吹いてきて、彼らは逆風に悩まされたのであります。彼らは逆風にこぎ悩み、前に進むことができなくなりました。マタイによる福音書8章24節には、「その時、湖に激しい風が起こり、舟は波にのまれそうになった」とあります。つまり、舟は波にのまれ、沈没しそうになったのであります。その時、弟子たちは不安におののき、自分たちはおぼれ死んでしまうのではないかと思ったに違いありません。
 それは今日小舟に乗って大海にこぎ出している教会にも当てはまります。私たちの教会はただ主イエスの命令に従い、世界の大海にこぎ出しているのであります。この大海の中で激しい大嵐に見舞われ、逆風が吹いてきてこぎ悩み、前に進むことができなくなり、沈没しそうになることもしばしばでありました。

 この度、房総君津教会の特別伝道礼拝に招かれまして、あらかじめ送られてきた『房総君津教会50周年記念誌』を読ませていただきました。そこには、この教会がどのようにして誕生し、この世に歩み出したかについて詳しく記されていました。それはこの教会の最初からの歴史を語るものでありました。それを読んで私は非常に驚いたのであります。それはこの教会が最初からどんなに大きな困難の中を、この世の大海にこぎ出したかを知ったからであります。鹿島長老が遠距離を日参して近畿から加藤みき牧師を迎えるに至った様子は感動なくして読むことはできません。その加藤みき牧師を迎えて、君津駅前に最初の会堂を建築しました。その後、八千代台の開拓伝道に従事し、伝道所を開設して、現在の習志野教会の基礎を築くに至りました。また、南純牧師を迎えて、新しい会堂建築に着手されました。神学校や東京中会や大会での忙しい奉仕の中を、南純牧師と教会員の皆様の努力に感謝せずにおれません。今、現在に至る教会の歴史を顧みて、よくこの大嵐の中をここまで成長してきたものだと思わされました。
 しかし、今もこの房総君津教会は安心できません。新しい大嵐に見舞われているからであります。それはどの教会も見舞われていることでありますが、少子高齢化の激しい波はこの教会にも襲いかかっているように思います。教会の将来を保証するものは人間的には何もありません。私たちの小さな舟のような教会は、大波に飲み込まれて沈没してしまうかも知れません。今後の房総君津教会の歩みの上に、主の豊かな祝福を祈るものであります。

 さて、弟子たちの舟が湖の真ん中でこぎ悩んでいるとき、主イエスはどうしておられたのでありましょうか。主イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸に向かってこぎ出させた後、ひとり山に登っておられたのであります。それはひとりで祈るためであります。その祈りはご自身が神から遣わされて、この世に来た使命を確認し、父なる神と深く交わり、神からの力を与えられるためのものでありました。また、この世にいる弟子たちの歩みのためにもたえず祈られたのであります。その祈りの中で主イエスは弟子たちの舟が湖の真ん中に出て大嵐に見舞われ、こご悩んでいる様子をご覧になったのであります。そこで、夜が明ける頃、主イエスは湖の上を歩いて、弟子たちのところへ行かれました。「湖の上を歩いて」とは、激しい大嵐の湖の上を歩いた事を意味しております。それは弟子たちの小舟が大嵐に出会い、逆風にこぎ悩み、今にも沈没しそうになっていた湖の上を歩かれたことを意味しております。その大嵐を乗り越え、逆風を貫ぬき、激しい波風をも克服して、それに打ち勝って歩んでおられる勝利者イエスの姿をまざまざと見る事ができます。
 主イエスはいまここに私たちと同じ見える姿ではおられません。しかし、私たちの罪のために十字架にかけられて死に死に打ち勝って復活し、今も生きておられます。そして、天に昇り、神の右に座し、この地上にいる私たちのために弁護し、執り成してくださっています。この世のどんな勢力も主イエスの勝利の力に打ち勝つ事はできません。主イエスはどんな大嵐にも打ち勝って、勝利者としてその湖の上を歩いておられるのであります。主イエスは逆風にこぎ悩む弟子たちの小舟に近づいて来られたのであります。弟子たちは主イエスが湖の上を歩いて近づいて来られるのを見て、それが本当のことだとは思われず、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。しかし、主イエスはその弟子たちに向かって、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。それは主イエスのご臨在の恵みの力によって、震えおののく弟子たちを励まされたことであります。小さな舟に乗って、大海を渡る教会の希望と慰めはいつもこの勝利者である主イエスのご臨在の主イエの恵みの力にこそあるのであります。 
 「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない」という今も生きて働きたもう主イエスのみ声に聞いて、教会はこの危機の中でたえず主イエスのみ声によって慰められ、励まされ、支えられて生きるのであります。

 ところで、28節以下はこの主イエスのご臨在の恵みの力を知ったペトロの様子を述べています。それはマタイによる福音書のみが記している出来事であります。ペトロは主イエスに向かって「主よあなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらをに行かせてください」と頼みました。ペトロは主イエスのご臨在の恵みが共にあることを知って、大変喜んだのであります。そして、それに大いに力づけられて、勇気を与えられ自分も主イエスのように水の上を歩いてそちらに行かせてほしいと頼んだのであります。「水の上を歩く」とは混沌としたカオスの水の上を歩くことであります。主イエスが大嵐の水の上を歩かれたように、ペトロも大嵐によって混沌とした「水の上を歩いてそちらに行かせてください」と頼んだのであります。
 主イエスは「来なさい」と言われました。それは主イエスの招きの言葉であります。ペトロはただ主イエスの招きの言葉に従って、舟から降りて水の上を歩き出すと、不思議なことに水の上を歩くことができたのであります。できない、不可能と思われたことが、可能となって、主イエスの方に向かって進むことができたのであります。主イエスの勝利の力がペトロにも与えられたのであります。それは出エジプトの紅海を渡る奇跡がペトロにおいても起こったことであります。モーセが主の命令に従い、杖を高くあげ手を海に向かって差し伸べると、海は二つに割れ、イスラエルの民は海の中の乾いたところを通ることができたのであります。それが主イエスの弟子の一人ペトロにおいても起こったのであります。ただ主イエスの命令に従い、主イエスを見つめて、主イエスに向かって歩むとき、どんな大嵐の混沌とした水の上であってもペトロは歩くことができたのであります。
 それは小舟に乗った私たちの教会においても必ず実現します。教会の歴史は混沌とした水の上を歩く歴史であります。どんなに激しい反対があり、混乱があり迫害があっても、混沌としたカオスに直面しても、主イエスはその勝利者としての恵みの力をもって、水の上を歩かせてくださいます。その不思議な奇跡が教会の歩みには必ずあるのであります。また教会に連なる私たち一人一人の歩みにおいても、必ず実現するのであります。 

 しかし、30節を見ますと、ペトロは「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」とあります。ペトロは主イエスに対する信仰を貫き通すことができなかったのであります。それは主イエスに向けていたまなざしを反らし、自分に激しく襲ってくる波風に目を奪われたからであります。その大嵐の中にあってただ主イエスに目を向けるとき、その大嵐を貫ぬいて水の上をまっすぐ主イエスに向かって進むことができるのであります。しかし、ひとたび主イエスから目を反らし、自分に激しく打ち付ける波風に目を向けるとき、恐怖が支配し、海の中に沈みかけるのであります。
 ペトロはその危機の中であわてて「主よ、助けてください」と叫びました。すると、主イエスはすぐに手を伸ばして捕え、ペトロに向かって「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。「信仰の薄い者」とは、信仰の小さい者という意味であります。決して信仰がなくなったわけではありません。ただ主イエスに目を向けることを忘れて、激しく打ち付ける波風に目を向けたことであります。そして、疑いに陥り、激しく打ち付ける波風に目を奪われ、恐怖に陥ったのであります。主イエスはそのペトロに向かって、「なぜ疑ったのか」と厳しく叱責されました。その「疑う」ということは、心を二つの分けることであります。ヤコブの手紙1章6節では「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」と言われております。そして、1章8節の口語訳聖書には「このように疑う者は二心の者であって、そのすべての行動に安定がない」とも記されています。ペトロはこの疑いに陥ったのであります。すなわち、主イエスに向けて一心に、まっすぐに向けていた心を忘れて、ただ波風に心を奪われ、あちこちを見てふらふらと二心に陥ったのであります。そして、その疑いから水の中に沈みそうになったのであります。
 しかし、ペトロはその危機の中から、「主よ、わたしをお助けください」と叫びました。その信仰はまっすぐに主に立ち帰り、一心に主に依り頼んだのであります。すると、主は手を差し伸べて彼を捕らえ、水の中から救い出されたのであります。

 私たちもしばしばペトロと同じように疑いに陥り、二つの心に揺れ動きます。しかし、そのような疑う者をも、マタイによる福音書の最後の28章では、全世界に出て行くようにと招いておられます。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたのであります。私たちも疑いに陥ったとき、ペトロのように主に立ち帰り、一心に「主よ、わたしを助けてください」と叫びたいと思います。そのとき、どんな激しい混沌とした水の中にあっても、主イエスは必ず私たちを助けてくださるに違いありません。
 房総君津教会の小さな舟も、今後どんなことが起こっても、必ず主が共にいて導いてくださるに違いありません。それは教会に連なる私たち一人一人の歩みにおいても同じであります。「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない」というこの御言葉に目を向けて歩みたいと思います。


<祈り>
 教会のかしら、全世界のすべてを私たちの思いを超えて支配し救いたもう主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、この房総君津教会の特別伝道礼拝に招かれて、説教することを許してくださり、心から感謝申し上げます。ここににもあなたの教会が建てられ、ここにも兄弟姉妹が召され、ここにも牧師が招聘されてその召しに与かり、一生懸命伝道に励んでおられる様子を目の当たりにすることができ、心から感謝いたします。この教会の歩みを『記念誌』を通して深く学びました。本当に混沌とした大海の中にこぎ出した小舟がどのようにして今日の教会を形成するに至ったかということは、私たちの思いを超え、力を超えて、あなたの「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない」という御言葉によって、よえず励まし強めてくださったことによることを覚えて感謝するものであります。まことにここに教会が存在していることは主の恵みの奇跡であります。ここに一人一人が集められていることもまたあなたの恵みと憐れみによるものであります。
 あなたは私たちの思いを超えて、不思議に働いてくださり、あなたの御業を行ってくださいます。どうかここに集められた一人一人の健康を支え、信仰を顧み、この教会を祝福して下さいますように。どうかこの教会が今後少子高齢化の激しい波の中にあって、あなたを仰ぎつつ、またよき知恵と力を与えられて、主に信頼してその波風を乗り越えて行くことができるように導いてください。この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。アーメン。