日本キリスト教会 房総君津教会@ 本文へジャンプ
 特別伝道礼拝−4

2008年7月20日 特別伝道礼拝説教(房総君津教会 南純牧師)

「私たちの宝物は何か」
  イザヤ書33章5〜6節
  マタイによる福音書6章19〜21節

 最近久し振りで一冊の本を読み通しました。最近は忙しいということもありますが、なかなか読み続けたくなるような本に出会わないでおりました。その本は東後勝明という人の書いた『ありのままに生きる』という本であります。副題には「人と自分を愛するための聖書養生訓」とあります。「いのちのことば社」から出ているのでありますが、これらの題は出版社が付けたものかも知れません。 
 「ありのままに生きる」というような題の本は、これ以外にも沢山出ておりますので、あまり注目しておりませんでした。ただこの著者「東後勝明」という方のことは前から知っていました。皆さんの中にも知っている方がいるかもしれませんが、この東後勝明さんは1972年から85年まで13年間もNHKの「ラジオ英会話」の講師を勤めていた方であります。早稲田大学の先生をしながら、NHKの講師としても大変人気があり、長く続いた方だと思います。わたしも時々聞いていましたが、長続きはしませんでした。ただ彼が書きました『英会話110番』という三部作があり、それだけは結構読ませてもらいました。
 きょうは勿論そのような英会話の話をしようとしているのではありません。そうではなくて、彼がその後たどってきた20数年の歩みを知って、少し紹介してみようと考えたのであります。
 彼はわたしと同じ1938年の生まれなのですが、NHKの英会話講師をしていた頃は30代の半ばから40代という人生の中でも一番油の乗り切った時期であります。人気講師であると同時に早稲田大学の先生でもあったわけでありますから、大変忙しい生活をしていたようで家族のことなど顧みる余裕もなかったと言います。
 そのような中で、娘さんの不登校が始まります。それはロンドン滞在中に通っていたインタ−ナショナル・スクールでの言葉のハンディや環境の変化から起ったようですが、帰国後も引きずってしまいます。
 さらに、それに追い討ちを掛けるように、奥さんがその娘さんのことでストレスを背負い、くも膜下出血で倒れてしまい、12時間にも及ぶ手術を受けなければならないという出来事が起ります。幸い、いわば九死に一生を得たのでありますが、その同じ年に今度は本人が原因不明の腹控内出血で倒れてしまったのであります。救急車で運ばれ入院するのでありますが、なかなか原因が分からず、このままでは命が危ないというような状態になります。ようやく動脈からの出血がつき止められ、いよいよ開腹手術ということでカテ−テルを入れて調べているうちに、その出血が不思議なことに止まってしまったのだそうであります。しばらく入院はしていたものの何の手術もなしに退院することができたのであります。
 その入院中に、奥さんが所属していた教会の牧師が彼を見舞いに訪れ、詩編の23篇を読んでくれた時に、彼は不思議な体験をしたと言います。この詩編には「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とありますが、その辺りまで来たとき、「体中が熱くなり、肩の力がス−ッと抜け、目から大粒の涙がボロボロとこぼれてきた」と書いております。「そして、だれかに後ろから軽く肩に手をかけられ、<そのままでいいんだよ>という声が聞こえてきた」というのであります。また、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」というところに来ると、「昨日まで味わったあの死の恐怖から一瞬にして解き放たれ、生かされていることの喜びに体が震えた」とも記しております。
 その後、彼は奥さんの教会に通い始め一年後の1995年に、57歳にして洗礼を受けたのであります。その洗礼を受ける少し前に牧師に「洗礼を受ければ病気は治りますか?」と質問したそうですが、その時牧師は「治りません」と答えたと言います。さらに「受洗すれば、いいことばかり起りますか?」と尋ねたところ、「いや、いいことも悪いことも起ります」と答えられたそうです。その時、もし牧師が「病気は治ります。いいことばかり起ります」と答えていたら、自分は洗礼を受けていなかっただろうとも書いております。彼はむしろ悪いことも良いことも受け入れてありのままに生きることこそ信仰の道であると受けとめたのであります。
 ところで、彼はそれまでの自分の人生を振り返って、「なりふり構わず、出世街道を突き進んできた」と述べております。それは父親が死の床で「勝明、お前、出世しろよ!」と、遺言を残したことに始まっているようであります。ところが、50代になって「あいつぐ試練」に遭遇し、その出世街道にストップを掛けられ自分の人生を振り返って見ざるを得ないところに追い込まれてしまったのであります。
 出世をして地位も名誉も得、さらに少しでも多くの収入を得て、安定した老後を送りたいというようなことが、私たちの一般的な願いかも知れません。しかし、私たちの人生はそれほど計画通り、予定通りにはまいりません。この東後勝明さんのように、家族のことや自分自身のことで予定外のことが重なって起ってくる場合も珍しくありません。そこで、東後勝明さんは「ありのままでよい」という声を聞き、信仰の道に入りました。彼は聖書の中に、そのような言葉がたくさんあることをも指摘しております。彼はその後も必死で聖書を読み続けてきたのだと思います。

 さて、きょうはマタイによる福音書6章19節のところを読んでいただきました。そこでは、まず「あなたがたは地上に富を積んではならない」と言われております。この5章から7章までは、イエス・キリストが語られた説教が記されております。先程の東後勝明さんの本には「聖書養生訓」という副題がついておりましたが、そのような「養生訓」というか「処世訓」ならこれらの箇所にたくさん出てまいります。
 イエス・キリストは「地上に富を積んではならない」と言います。この「富」という言葉は、前に用いていた口語訳聖書では「宝」と訳されておりました。富にしても宝にしても、それは貴重なものであり、価値あるものであります。
 毎年長者番付といったものが発表されておりますが、これなどは明らかに地上の富や財産を基準にしたいわば人間のランク付けでありましょう。幸か不幸か私たちの回りにはそうした人が見当たりませんが、ある意味ではそのような地上の富や宝の追求に重きをおいて生きていないということなのかも知れません。  
 イエス・キリストが「地上に富を積んではならない」と言われるのは、地上では、「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗みだしたりする」(29)からだと言います。つまり、それらの地上の富や宝はそのまま宝であり続けるわけではないというのであります。その意味で、富や宝は私たちの人生を保証するものとはならないのであります。
 確かに、富や宝が全くなければ困ることが起こります。他人の財布を当てにして生きることはできません。その意味で、少しは蓄えも必要なのであります。しかし、それでもやはり富や宝を当てにして、その上に私たちの人生を築くことはできないのではないでしょうか。
 今日のわが国では物質的には大変豊かになり、生活も便利になりましたが、他方では様々な不安材料にも事欠きません。幼児虐待や親殺し、あるいは無差別殺人、教師や公務員、警察官などの不祥事、さらに様々な偽装問題など毎日のように報道されております。いつ自分たちもそれらに巻き込まれるか分からない状態であります。
 そのような中で、本当に頼りにできるものはあるのでしょうか。イエス・キリストは「富を、天に積みなさい」と勧めております。なぜなら、「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗みだすこともない」からだと言われております。
 では、この場合の「天」とは何を意味するのでありましょうか。聖書では「天」は単なる大空や天空を指すのではなくて、何よりも神様のおられるところを意味しております。先程、司会者に読んでもらいましたイザヤ書33章5節に「主は、はるかに高い天に住まわれ」と言われておりますが、この「主」というのは「神様」のことであります。
 ですから、「富を天に積みなさい」ということは、富を神様のために積むということであります。あるいは、神様のために用い、神様のご意志に沿って用いるということでありましょう。

 イエスのたとえ話の中に「愚かなお金持ち」というたとえがあります。ルカによる福音書12章13節以下に記されておりますが、そこではまず「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」(15)ということで、そのたとえが語り始められております。
 ある金持ちの畑が豊作で、入れておく場所がなくなり、新しい倉を作って、そこに穀物や財産をみなしまい込み、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と、自分に言い聞かせるわけであります。ところが、神様はこれを聞いて、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物はいったいだれのものになるのか」と言われたというのであります。そして、イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と、付け加えております。このように、先程の「富を天に積む」ということは、ここでは「神の前に豊かになる」という風に言い換えられております。 ところで、このことは必ずしも富も財産も時間もすべて神様のために用いれば良いということではありません。それは、イエス・キリストがある所(マルコ7;11)で、このように言っているからであります。「もし、だれかが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものはコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」と言っているが、これはとんでもない曲解で、神の言葉を空しくするものだと厳しく批判しているのであります。 「神様のために」することと「父母のために」することは決して別物ではありませんし、切り離されてはならないというのであります。別な言葉で言えば、神様を愛することと隣人を愛することは切り離されてはならない、ということであります。そして、隣人を愛することは、隣人のために富も財産も時間をも用いるということであります。「富を天に積む」ということは、具体的には隣人のために自分をささげ用いることなのであります。
 前に私がいた教会に郵便局長さんがおりました。彼はしばしば「天国銀行」の話をしておりました。郵便局でも貯金などを集めていたわけですが、「天国銀行ほど確かなものはない」などと言うのであります。それはなぜでしょうか。それは「天国銀行」に宝を積む者は、何よりもその利子がどうなるかとかこの銀行は破産しないかなどと心配する必要がないからであります。また、どうなるにしても、神様にすべてを委ねて生きることができるからであります。東後勝明流に言えば、「ありのままに生きる」ことができるからであり、何よりも心に平安が与えられるからであります。

 さて、最後にイザヤ書33章の5節の言葉を読んでみたいと思います。「主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である」とあります。まず、主なる神は「あなたの時」、「あなたの人生の日々」を堅く支えてくださるというのであります。どのような日々であれ、それを堅く支えてくださるのであり、東後勝明さんはそのような神様に出会い、その神様に自分の人生を委ねたのであります。さらに、「知恵と知識は救いを豊かに与える」と続きますが、この言葉も本当は「主」が主語であり、「主は知恵と知識を豊かにして救いを与える」とでも訳すべき言葉であります。
 そして、最後に「主を畏れることは宝である」と結ばれておりますが、旧約聖書の箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」であるという有名な言葉がありますように、単なる知恵や知識ではなくて、主なる神を畏れ敬うような知恵と知識を意味しております。
 きょうの説教には「私たちの宝物は何か」という題をつけましたが、いまその宝物が少し見えてきたのではないでしょうか。その宝物とは、主なる神を畏れ敬いつつ、神の住まいである天を仰ぎ、その神に人生を委ねて生きることであり、しかも地上にあって自分の隣人のために自分に委ねられ、与えられている賜物を精一杯活用するような人生を歩むことでありましょう。私たちは一人一人そのような人生に向かって歩み出すように、いまその招きを受けているのであります。