日本キリスト教会 房総君津教会@ 本文へジャンプ
 特別伝道礼拝−5

2008年10月12日 特別伝道礼拝説教(単立ひばりケ丘教会 吉平敏行牧師)

「天から降ってきた生きたパン − 豊かさの秘訣」
  申命記8章1〜16節 
  マルコによる福音書8章1〜26節

 今年、房総君津教会が教会建設50周年を迎えられたと聞きました。心からお祝い申し上げます。その記念すべき年に毎月特別伝道礼拝を持たれ、福音宣教に当たっておられることを大変うれしく伺わせていただきました。今回、南先生から大切な説教のご依頼を受けまして光栄に思うと共に、先生のご配慮に心から感謝しております。皆さんのいのちの交りである礼拝にわたしも加えていただいて共に恵みに与かりたい、わたしも一緒におささげさせていただく小さなパンを主が祝福してくださって、皆さんと共に恵みを存分に分かち合わせていただきたいと思っております。教会のかしらなる主がここにおられる皆さんのすべての必要を満たしてくださるようにと祈りながら備えてまいりました。 

 さて、さきほどお読みいただきましたマルコによる福音書8章1節に、「また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかった」と書かれております。今日はデパートやスーパーやコンビニを見ても、食べ物が有り余っているような時代であります。本当に毎日売り尽くせるのであろうかと思うほどであります。しかし、わたしの目にはこの聖書の「何も食べる物がなかった」という言葉の方が心に響いて来るのであります。それはお腹の空腹感ではありません。何か満たされないものがある。デパートで出来上がりの総菜を買っても、外食をしても、映画を見ても音楽を聞いても、気晴らしに旅行に出ても、趣味に没頭しても、どこかに残る何も食べる物がなかったという欠乏感、それは欲しい物は本当にこれだったのかという欠乏感であります。逆に、こう問うことができるでありましょう。「一体わたしは何で満たされるのか」、「何があったら本当に満足できるのか」。
 もう大分昔のことになりますが、1970年代に、今も歌っていますけれども井上陽水の「傘がない」という曲をヒットさせたのであります。「都会では自殺する若者が増えている。今朝来た新聞の片隅に書いていた。だけども、問題はきょうの雨。傘がない」と始まるのであります。「彼はその<きみ>と呼ぶ友達のところに行かなくちゃいけない」という。その理由は分かりません。深読みをすれば、その<きみ>に自殺の可能性があるのかも知れない。とにかく「きみに会いに行かなくちゃ」と歌うのであります。新聞の片隅の自殺増加の記事と自分の友だちが繋がる。しかし、その<きみ>のところに行こうと思ったまさにその時に現実の問題に直面する。この雨の中を出てゆく「傘がない」。
 あれからほぼ40年、今では自殺者が年3万人を越える。しかも、それが10年続いているというのであります。駅の電光掲示板に「何々線が人身事故のために現在運転を見合わせています」というテロップを何度見たことでありましょうか。こんなに社会は深刻な状況を迎えているのに、現実に対応してゆく術がない。この「何も食べる物がなかった」という言葉は、生きてゆく上でどうしても必要なものがない切実さを示しています。 

 この2節、3節の主イエスの言葉をお聞きください。「群衆がかわいそうだ。もう3日もわたしと一緒にいるのに、食べる物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」。「人はパンだけで生きるのではない」と言われた主イエスが、パンが食べられず空腹でいる群衆を気の毒がっておられる。人はパンだけで生きるのではないが、パンがなければ人は生きられないことを、主はご存じでいられる。イエス様は多くの人々が誤解しているように、心の平安だけを考えておられるのではないのであります。ちょっとしたことではありますが、主イエスは幾つかの点で誤解されております。たとえば、信じるということが理性も感情も殺して頭の中をまっしろにすることでるかのように思っていらっしゃる方がおいでです。あるいは、洗礼式を僧侶になる得度式のように考え、洗礼を受けたらもう二度と庶民の生活ができないかのように思ってらっしゃる方もいられます。信仰生活を修道生活のように、ひたすら忍耐の生活と思ってらっしゃるかも知れません。こうした誤解はイエス様の当時の人々も、また今日のわれわれも、イエス・キリストがわれわれに与えようとしておられるものが、よく分かっていないことに発しているように思われるのであります。
 そんな人々との間のずれを感じさせるイエス様の嘆息が聖書を読んでいると聞えてくるのであります。それは本日の一つ前の章になりますが、7章の34節に「天を仰いで深く息をつき」という言葉が出てまいります。それから8章の12節にも、「イエスは心の中で深く嘆いて言われた」とありますが、この「深く息をつく」「深く嘆く」という言葉であります。7章のところでは、群衆が耳が聞こえず舌の回らない人をイエス様のところに連れて来て、「手を置いてほしい」と願う場面であります。もちろん、イエス様は癒してあげるのでありますが、この場面でなぜ息を深くつかれたのでありましょうか。イエス様に病気を治してもらいたいと願う群衆。しかし、イエス様が本当に与えたいと思っているものとは違うのです。それが「深く息をつき」となったのでありましょう。8章の11節からは、ファリサイ派の人々が天からのしるしを見せてくれと、イエス様に議論を仕掛けています。天から遣わされた証拠を見せてくれ、そうしたら信じるからと言うのであります。しるしを欲しがる人々への深い嘆きであります。そして、もう一か所は嘆いたとは書かれていませんが、明らかに弟子たちの理解の鈍さを嘆いている言葉であります。それは17節から18節に書かれてあります。弟子たちはあれほどの大群衆がパンを食べた後で、パンを一個しか持ってこなかったと言って、議論を始めたのです。嘆かわしいことこの上もない。イエス様は「まだ分からないのか。悟らないのか、心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」。このように叱っておられます。これは嘆きを超えたお叱りであります。
 病気を治してもらいたいと願う群衆、天からのしるしを求めるファリサイ派の人たち。これほどの奇跡を体験しながら悟らない弟子たち、イエス様の嘆きはまことに大きかったのであります。

 では今日の私たちはどうでしょうか。イエス様は私たちに何を与えようとしておられるのでありましょう。もし皆さんがきょう何も食べる者がなかったというような漠然とした欠乏感を感じておられるのであれば、イエス・キリストはそのことを深く憐れみ、何とかしてあげたいと思っておられるということを知っていただきたいのであります。
 おそらく、キリスト教と他宗教と大きく違うことは、信仰を体験としてよりも考えるという点ではないかと思っております。奇跡や超自然的な現象を見て、恐れを感じ、信じてみようとするのはあるだ味で自然な感覚であります。私たちは考えるよりも感動する方が真実であると思うのであります。しかし、それは信じたのではなくて、感動を得ただけであります。考える、理性を働かせるということも神からの大きな賜物であるということを忘れてはいけません。

 きょうの読んでいただきましたこの箇所も、大抵はこのパンの奇跡に関心をよせるのであります。このパンはイエス様の手の中で増えたのだろうか、弟子たちが配っているうちに増えたのだろうかなどと、ちょっと勘ぐりたくなるのであります。ところが、よく読みますと、著者はこの奇跡の詳細にはあまり関心がなさそうなのであります。しかも、6章にも同じような奇跡が出てまいります。むしろ、福音書の記者はこの二度のパンの奇跡を載せなければならなかった。事実二度あったというばかりでなく、よく読んでいきますと、この二度の出来事には大きな違いがあるのであります。その手掛かりが、19節、20節のイエス様の言葉であります。「<わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑で一杯になった籠は、幾つあったか>。弟子たちは<12です>と言った。<七つのパンを4千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか>と言うと、<七つです>」と、まるで幼稚園の生徒に聞くような質問をしていますが、前回男子だけで5千人のとき、実際にはもっと多かったわけですが、5つのパンを裂いて、皆満腹して残ったパン屑が12の籠に一杯になった。今回は4千人の群衆に七つのパンを裂いて、残ったパン屑が7つの籠に一杯になったというのであります。私は大抵聖書を読みながら、こんな数字は重要でないだろうと思うのであります。大勢が食べたんろう、それでいいじゃないか、と思うわけでありますが、あえて数字を挙げて、「まだ悟らないのか」と言われた意味は大きいのであります。これが中学生の計算問題ですと、「5千人に5つのパンを裂いて、残りは12の籠であった」。同じ割合でパンが増えるものとして、4千人にパンを与える場合、何個のパンを裂いたら良いか、その場合いくつの籠が残るか計算しなさい。こうなるのであります。決して難しい問題ではありません。5千人に対して5つのパンであれば、4千人であれば4つで良いわけであります。残りは12に対して9.6籠になるはずであります。これはパンの膨張率が同じ場合なんですね。ところが、今回は4千人に対して前よりも多い7つを裂いた。膨張率が同じであれば、もっと多く残っよいのでありますが、何と7つの籠しか残らなかったというのであります。これは明らかにパンの膨張率が減ったことを示しているのであります。そんなに増えること自体が奇跡であるに違いないんですけれども、しかしちょっと気になる、減ったなという感じですね。

 その中で、イエス様は15節のところで「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」とおっしゃておられます。「パン種」というのはパンを膨らませるイースト菌のことであります。そして、ここで問題になっているのは「1つのパンしか持ち合わせていなかった」弟子たちであります。イエス様はそのことを「まだ悟らないのか」と叱っておられるのです。つまり、パン種と弟子たちの理解の問題であります。弟子たちはまだイエス様のことがまだよく分っていない。しかし、彼らは大変計算の早い弟子たちでもあります。たとえば、5千人のときには、弟子たちの方がイエス様に申し出ております。「こんなに人里離れた所で」時間も大分経ちました。人々を解散させてください。そうすれば、人々は町や里に買いに行くでしょう。極めて常識的な判断であります。ところがイエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃる。その時の弟子たちの回転は早かった。ぱっと見渡して、「わたしたちが200デナリオンものパンを買ってきて、皆に食べさせるのですか」。200日の労賃分のパンを買って来いとおっしゃるのですか。そんなこと出来ませんよ、と即答するのであります。5千人の腹を満たすには200デナリオンが要る。そんなパンはこのような人里離れたところにはない。従って、自分たちにはできません、となかなか計算は早いのであります。
 ところが、今度は4千人いまして、イエス様が「群衆はかわいそうだ、もう三日もわたしと一緒にいるのに食べる物がない。ところが、弟子たちはまた同じことを言っているんですね。4節をご覧ください。「こんな人里離れた所で、一体どこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」。「え、あなたたち前回体験したじゃないですか。5つのパンと2匹の魚で5千人がみな十分食べて満足したはずではないですか。今回だって、イエス様にやっていただけばいいじゃないですか」。ところが、彼らはすぐに「自分たちにはできない」という計算を始めるのであります。問題はそこなんですね。「はじめに出来ないありき」なんですね。「こんな人里離れた所で、こんなに大勢の人たちに」と状況を分析して、常識的な計算をします。答えは当然「出来ません」となるわけであります。
 今度は舟の上で10人そこそこになりまして、パンが1個しかない。どうしてあれだけ余っていたのに、お前は持って来なかったんだ、籠の担当はお前だろ、いや群衆を案内していたんだよ、ちょっと持ってくるのを忘れたんだ、そんな議論だったんでしょうか。もう奇跡も何もあったもんではありません。なぜ5個のパンで5千人、7個のパンで4千人が食べて満腹したんだから、1個のパンで千人くらいは食べられるんじゃないかと思い付かなかったんでしょうか。この位の人数なら、1個のパンでなんとかなるんじゃないかなとは思わなかったのでしょうか。
 さすがにイエス様も嘆かれるわけであります。「まだ悟らないのか」。多くの空腹な人を見れば、気の毒に思います。困窮者を見れば、見ぬふりができないでありましょう。では、実際に何が出来るのか。完全失業者数を計算して、その人々がすべて職を得るために国からこれだけ補助金を出しましょう。しかし、そんな予算でどれほどの人が職に就けるのか。家計は厳しくなっていく。近ごろのニュ−スでは、保険も危ない。キリスト教会に目を向ければ、クリスチャン人口は少ない。これだけの人数でどうやって教会を維持出来るだろうか。こと現実の問題に直面すると、私たちの頭の中で膨らんだ希望も消えてしまいまして、すべての恵みを忘れてしまったかのような悲観的な計算を始めるのであります。パソコンでグラフを作って、パワ−ポイントで美しく描き出して、「う−ん、やっぱり無理です」という答えを出すのであります。希望は湧いてきません。力が出てきません。

 私たちはここでイエス様が言われたパン種を思い浮かべたいのであります。パンを膨らませるためにどういう条件を整えたらいいのか。少なくても教会では、直面する問題にイエス・キリストはどうなさるだろうと考えるのであります。まさに何も食べる物がないという実際的な状況の中で、イエス・キリストは私たちのことを心配してくださっているのであります。私たちの方こそイエス・キリストは単に心の平安を与える方だと思い込んでいないでしょうか。 
 イエス様は弟子たちを叱責されます。「まだ分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」。よくこれだけ立て続けに語られたもんだなと思いますが、イエス様は一体何を悟れとおっしゃっておられるのでしょうか。聖書を細かく丁寧に読んでいきますと、6章には5千人を養った記事が出てくるのでありますが、その42節の所には「すべての人が満腹した」と書かれているのであります。その場で全員が満腹したことが強調されております。そして、43節を見ますと、「パンの屑と魚の残りを集めると、12の籠に一杯になった」とあります。ところが、8章の8節の所では、「人々は食べて満腹した」と書いてあるだけで、「みな」とか「すべて」に当たる言葉は付いておりません。7つの籠についてもそうであります。「一杯になった」とは書かれていないのであります。もともとのギリシャ語聖書を見ますと、この5千人の時の「籠」という言葉と4千人の時の「籠」という言葉とは違っておりまして、ある人は5千人の時の「籠」という言葉は大きな籠を指す言葉を使っていると書いておりました。明らかにパンの増え方が減ったのであります。パンが手の中で増えようと弟子たちが運んでいる間に増えようと、パンは確かに増えていきました。
 マルコはこの奇跡自体に主たる関心はない。問題はイエス様が同じようになさったにもかかわらず、パンの増え方が減り、人々の満足度が減り、残ったパン屑も減ったということです。そして、知らず知らず弟子っちの心も萎んでいったということであります。これが大問題であります。会社の経営者であれば、こうした数字の減少をすぐに読み取らねばなりません。有名な月刊誌が市場から消えているという記事を読みました。ノンフィクションを主とする月刊誌であっても、この情報の早さに月毎のペースでは人々の関心が冷めていってしまうと分析しているのであります。社会で原因を考えるとすれば、神の国の推進者であるイエス様がこの減少の原因を分析されないはずはないのであります。何が原因なのか。どうしてパンは減ったのか。その手掛かりは「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」という言葉であります。パン種とはイースト菌のことであります。「天の国はパン種に似ている」とイエス様はおっしゃいました。小麦粉を練ってパン種を入れ、一定の温度を保てばパンが膨らむように、神の国は命の言葉で増え広がっていくというのであります。ところが、イエス様は「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言います。別の所で、ファリサイ派のパン種とは偽善であると指摘しております。あるいは「イエスが注意されたのはパン種のことではなくて、ファリサイ派とヘロデの教えのことだ」と述べています。パン種とは間違った教えを指しているわけでありますちょっとした言葉でも、それを受け入れた者の世界観は大きく変わり、その人の人生すら変えていきます。そうした教えの核になる物をパン種と呼んだのであります。

 きょうの11節から13節には「天からのしるしを求める」ファリサイ派の人たちが出てまいります。群衆の思いにもそうしたしるしを求めるような影響を与えていたのかも知れません。ヘロデのパン種とは、ある意味で宗教性と世俗性を合わせ持った便利主義、ご都合主義とも言えます。神を畏れると言いながら、この世におもねる人々の代表であります。それを「ヘロデのパン種」と呼んだのであります。しるしや奇跡を求める思いと世俗的な宗教観を戒められ、おそらくは弟子っちの中にもそうした考えが浸透していっていた。二つの大きな奇跡を目のあたりにしながら、彼らはまだ悟っていなかった。イエス様が弟子たちに悟らせたかったのは、何だったのでしょうか。
 イエス様はご自分のことを「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることはなく、わたしを信じる者は決して乾くことはない」あるいは「わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるなら、その人は永遠に生きる」と言われました。この奇跡的に増えたパンでも食べてしまえば、お腹が空くのであります。物質はいつか無くなるでしょう。しかし、命のパンであるイエス・キリストを信じる者は決して飢えることがない。決して乾くことがない、こう言われるのであります。どんな時代でも何も食べる物がなかったということはあるのであります。それが戦時中のように実際に食べる物がない飢餓状態ということもあるでありましょう。あるいは、今日のように食べ物があり余っていても、生きていくための決定的なものがない場合もございます。
 わたしたちはまことの食物を持っていない。そんな私たちのためにまことの命を与えるために、イエス・キリストは来られ、その生涯を与え尽くし、十字架の上でご自分の命までも与え尽くされたのであります。人間は自分勝手な期待をイエスに求め、イエスの命の言葉を聞こうとせず、自分勝手に失望し、イエスを捨てたのであります。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせて、私たちに生きた希望、まことの命を示してくださいました。このイエス・キリストを信じる者は決して飢えることがなく、乾くことがない。この天から降ってきた生きたパンを食べるなら、永遠に生きるとおっしゃるのであります。そのイエス・キリストがおられる所が教会であります。その命のパンを私たちはいただいております。イエスを信じる集まりの中で、神の国は増え広がっていくのであります。いま多くの人々が何も食べる物がないと訴えております。単に食べ物がないだけでなく、生きていく希望がないと叫んでいるのです。
 みな生きたパンであるこのキリストの豊かさを知りません。イエス・キリストを信じることで与えられる豊かさであります。生きたパンとはどんな物か、どうやって天から降ってきたのかどうやって食べるのか、そんな問いはパンの奇跡でどうやってパンが増えたのかを問うのと似ています。しるしを求めているのであります。信じるとは信念ではありません。じっと念じて実感を求めることではありません。そうではなく、聖書に記されたイエス・キリストの言葉をそのまま受け入れることであります。イエス・キリストは世の中の飢え乾いた者たちを気の毒に思って呼び集め、イエス・キリストを信じて生きる新しい人の群れを造られた、それが教会です。教会には神の豊かさが満ち満ちていると書かれています。だから教会にこの1つのパン生きたパン、イエス・キリストがおられるだけで十分なのであります。
 注意すべきはパン種と呼ばれる間違って教えです。しるしや奇跡を求める心、敬虔そうに振る舞いながら世に引かれている心など、そうした教えが神の国を冷え込ませていくのであります。イエス・キリストへの期待を奪っていきます。いま世の中は互いに厳しくさばき合う時代です。そんな寒い凍えるような社会で、どうして私たちが豊かに生きられるでしょうか。イエス・キリストは群衆がかわいそうだ、もう三日もわたしと一緒にいるのに食べる物がないと私たちを案じていてくださいます。

 きょう手持ちのお金が乏しいことや教会の人数が少ないことを嘆く必要はありません。生きたパンであるイエス・キリスト、このパンで養っていってくださるのであります。私たちの方こそ弟子たちと同じように、すぐさま悲観的な情報を集めて、「出来ません」と答えてしまう悪い習性を悔い改めねばなりません。もう一度素直な心でイエス・キリストに求めたいと思います。イエス様、今までもそうなさったように、私たち一人一人に全員がお腹一杯になるほどパンを与えてください。そして、私たちすべての者は満ち足りるのでありましょう。この偉大な神からの賜物に感謝したいと思います。