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 他教会の牧師による礼拝−1

2009年4月26日 大石周平伝道師による説教(前柏木教会 多摩集会所伝道師)

「天は主の王座、地は主の足台」
  詩篇30篇1〜12節 
  使徒言行録7章54〜60節

 詩篇30編は、神から守られ、神の助けによって生きてきた信仰者の祈りです。確かに、なお死の恐怖や苦難は繰り返し詩人を襲っていますから、彼は救いを求める声を上げつづけてもいるのですが、それにしても、彼は救われた喜びを知って生きているものとして祈っていることは、疑いありません。
 「ダビデの祈り」との見出しに促されて、ここでイスラエルの王ダビデの生涯を思い起こしてもよいでしょう。ダビデは、若いときより、その命を狙うものの脅威を逃れて彷徨えるものでした。王の地位についてからは、彼の従者や息子さえ彼の敵になりましたから、生涯のいつのときにも、彼は、墓穴が口を開いて自分を待っているかのように感じながら生きていたことでしょう。その苦難はいつも彼を新しい形で襲っていたのでした。
 しかし、彼が明らかに神の守りを知り、救いの味を知るものとして祈り歌うことができた人物だったことは、サムエル記や歴代誌に伝えられているとおりであり、そして、いくつもの詩篇にその名が冠せられているとおりです。彼の生涯と信仰を思い起こしてみてください。彼は、危険の極みにあっても、敵の手より逃れることを得、神の力によって救われました。驚くべきことに、彼を追い立て、彼を貶めようとしていたものが失墜し、彼の命を狙っていたものがかえって命を絶たれたのです。

 「主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく、わたしを引き上げてくださいました。わたしの神、主よ、叫び求めるわたしをあなたは癒してくださいました。主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることをまぬかれさせ、わたしに命を得させてくださいました。」

 このように彼は、死にそうな目にあって、まさに墓穴に下らんと覚悟するような事態、いや生きながらに陰府を見るような事態にあっても、神によって助け出され、守られ、癒され、命を与えられたと言っています。彼は、そのような体験に基づいて限りない主への感謝を具体的に自らのものとできた人だったと思います。「主よ・・・わたしの神、主よ・・・主よ」と彼が何度も主の御名を繰り返して呼んでいることに注目してください。主が憐れんでくださるならば、主によってわたしは助けていただけると、どのようなときにも主にのみ希望をおいて生きていた彼の祈りがここにあります。主への祈りは確かに聞かれる。主が聞いてくださるならば、確かに救いを得られる。わたしたちは、主にあって生きる信仰者の祈りの模範ともいうべきものをここに見る思いがいたします。


 さて、神の御前にあって守られ、神により縋って生きるものの希望を、詩篇30編から受け止めることができました。その上で、本日の新約聖書の箇所に聞くことにいたしましょう。先ほど詩篇に続いて朗読した使徒言行録7章です。先ほどはダビデという人物に注目して、神の御前に生かされてある者の希望の一端に触れることができたわけですが、次に注目したいのは、神の御前に神により縋って生き、そして「死んだ」一人の信仰者、ステファノという殉教者についてであります。
 ステファノ、彼はキリスト者にして殉教した最初の人であるといわれます。ですから、今度は、神により縋ったが死んだもの、敵の手に落ちて命を取られてしまったものについて聞かなければならないわけで、状況が先ほどのダビデと大きく異なると言わざるを得ない面があります。たしかに、詩人が直面したのも死であり陰府であることは変わりません。しかし、ステファノのすがたによって私たちにより厳然と、はっきりと、直面させられるのは、死の現実、実際であります。主により頼んで祈ったけれども、彼の現実は、道半ばと言わねばならないような時に訪れた死だったのです。
 彼の祈りは、ダビデのように、あの詩人のようには聞かれなかったのか。神が共におられなかったから彼は敵の手に落ちてしまったのか。それとも神が共におられても神が救いえない場合というのがあるのだろうか。今度はそのような少なからぬ葛藤なくしては聞くことのできない記事であると思います。
 ここに記されている出来事をわたしたちの希望と受け止めるためには、先ほどのように、生きているときの希望を語るだけでは足りないと言わざるを得ないでしょう。ステファノの殉教に希望が見出せるとするならば、わたしたちは、ここに、死に際しての希望をも聞き取ることになるはずです。生きるにも、そして死ぬにも主がわたしたちの支えであり、慰めであるということ、すなわち、このことが、本日わたしたちがこの聖書から学びたいことがらになるのです。主に従って生きるものは奇跡的に敵から守られる、そういう信頼を持つこともできるでしょう、その確信をもって詩人とともに神を褒め称えることができるという信仰者は多いでしょう。しかし、実は現実には、主に従えば従うほど苦難は深まり、主の教えに生きれば生きるほど悩みは多くなり、主の御心を行えば行うほど墓穴はその口を大きくしていくように思われるというのもまた共に真実ではないでしょうか。そのように思わざるを得ないとき、わたしたちは本当に希望を持つことができるのでしょうか。ステファノの死に様に投げかけたいのは、信仰者のこのような真剣な問いであります。

 さて、彼が捕えられ、敵の手に渡った経緯を辿ることから始めましょう。使徒言行録6章によれば、ステファノは、十二人の使徒たちとは異なるけれども、使徒と同じほどに重要な職務を与えられた七人の指導者のうちの筆頭者でした。6章3節、8節から、彼は共同体の中でも特に「霊と知恵に満ちた評判の良い人」であり、「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行」うことのできた、賜物に溢れる福音伝道者だったことが窺えます。10節には、彼を論駁しようと議論を持ちかけてきたどのような知識人も、彼が「知恵と霊によって語るので、歯が立たなかった」と伝えられています。思えば、サムエル記下23章に記されているように、ダビデも「主の霊はわたしのうちに語り、主の言葉はわたしの舌の上にある」と歌うことのできた「知恵と霊」に満ちた指導者でしたし、モーセや、時の預言者たちが力溢れて言葉を語り、業をなすときには、常にそこに天来の知恵と神の霊の働きがありました。6章15節に記されているところによると、ステファノに直面した人々が、彼の輝ける顔について「さながら天使の顔のように見えた」と証言していますが、これは、シナイ山で神を見た際のモーセの輝いた顔を思わせる証言ではないでしょうか。ステファノが天来の知恵と霊に満たされて語り、不思議な業をなしたという聖書の記述から、彼がモーセやダビデ、預言者たちに比べても良いほどに、神と共にあって、神を仰ぎ見つつ生きた人物であったのだということが示されます。
 また、さらに大胆に言えば、彼は、「言葉にも行いにも力のある預言者」と呼ばれた「ナザレの人イエス」を髣髴とさせるほどに、天来の輝きを地上に放つことのできた力のある人だったとも言えましょう。彼の言動は、間違いなくイエスの言動を指し示すものでした。人々も、ステファノの言葉を聞くと「ナザレの人イエス」という名とその教え、そして、エルサレム市外の丘で起こったあの事件を思い起こさずにはおれなかったようです。正確には、ステファノ自身が自覚してイエスのことを伝えようとしたから、人々はそう思わされたということになりましょうか。とにかく人々は、ステファノを通してイエスを思い出し、先にイエスに対して示したのと同じ憤りを覚えました。6章で、偽りの訴えによってステファノを捕え、裁判にかけた人々は、その怒りをいよいよ露わにして、こう訴えています。
 
6章11節
 「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた。」
13節
 「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう』」

 「イエスはこの場所を破壊し、モーセの慣習を変える」と言ったことが、ステファノが訴えられた理由でした。このことが、神殿と律法をけなし、モーセと神を冒涜したと受け留められたのです。主イエスがサンヘドリンにおいて裁判にかけられたときの人々の嫌悪に満ちた主張が思い浮かびます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書全てが記録しているところですが、人々は、イエスを裁きにかけて「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち壊し、三日あれば、手で造らないべつの神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」(マルコ14:58)と証言して、イエスを神とその教えの冒涜者と決め付けたのでした。

 はたして、ステファノは、罪びとのように磔刑に処せられたイエスをキリストとして指し示し、そして、イエスと同じ言動をなした故に、捉えられ、裁かれ、そして殉教することになります。
 先ほど見たとおり、人々がいくら言葉を尽くして彼を論駁しようとしても、彼は「知恵と霊」とに満たされてますます力に溢れていますから、言葉の力比べでは、誰もステファノに歯が立ちません。歯が立たないものだからいよいよ歯がゆくて、歯ぎしりして、人々はついに強引に彼を市外に引き出して、石打ちの刑にしてしまうのです。
 それにしても確認しておきたいことは、使徒言行録7章に記されている、裁判の席でステファノが行った大変長い演説、いや説教についてです(使徒言行録中もっとも長い説教)。ここに溢れている彼の聖書的な知恵の豊かさと、彼の確信の強さを見るならば、人々がもはや反論することもできずに、まるで裁判の諸手続きを無視するかのようにさえ見える粗野な方法で判決を下すに至った経緯も想像できるような気がいたします。人々は、律法と神殿に関する暴言を問題にし、訴えを起こしたのですが、どうでしょうか。7章によれば、ステファノは、忠実に族長やモーセの歴史を辿り、トーラー(律法の教え)に基づいて説教し、神殿についての聖書的な理解を裁判の席で正しく明らかにしてみせたのです。そして、ついに、彼を訴えている人々にこそ、神殿に関する考えの誤謬があり、律法違反があると論じるに至っては、大変な説得力をもって、かえって神の裁きの前に人々を引き出すことまでできたのです。7章54節に描写されている人々の歯ぎしりは、彼にやり込められて、沈黙せざるを得なくなってしまった人々の悔しさをよく伝えていると思います。彼らはステファノの言葉を前にして、真実の言葉を語ることはできません。彼らの口は、歯軋りのために用いられるばかりです。このような人々の反応を前にして思わされることは、やはり、聖書に忠実にして神の御心に正しく生きるものであり、主と共にあればこそ、敵の怒りは大きくなり、死は近づいてくるというのが、自然であるのだ、ということです。


 さあ、あの問いをもっていよいよ彼の死に様を記した場面について、聞くことにいたしましょう。生きるにも、そして死ぬにも、主を慰めとし、希望とすることは、どのようにして可能なのでしょうか。例えばわたしたちは、死に際して、ステファノに倣って希望をもってあることができるのでしょうか。

 54節、55節
「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見た」

 まず、怒れる敵と、敵による死の脅威に直面したときに、ステファノが敵や死を見ていなかった、という点に注目したいと思います。人々の心底からの怒りは、歯ぎしりと共にステファノに向かっているのに、彼が目を向けているのは、「天」でした。「天を見つめ」と訳されているとおり、彼はただ「見た」のではなく、「見つめて」います。同じギリシア語動詞が1章10節に用いられていますが、そこでは、天に昇られるイエスを凝視する弟子たちの驚きに満ちたまなざしが描写されていました。まさに、目だけではなく、心をも対象に注いでじっと見つめるという意味が込められている動詞がこれなのです。目だけではなく、心も、そして魂も奪われる、というような状況です。視線が対象に注がれると同時に、その人格すべてが対象にゆだねられています。恐ろしい敵対の視線と激しい心からの怒り、そして彼を墓穴に下さんとする強い意志とが彼に注がれるときにも、彼は聖霊に満たされて、そのようにして、天に目と心、すべてを、注ぐことができたのです。この視線の先にあったものが、生きるにも死ぬにも彼の希望であったということができるかもしれない、わたしたちは地上の苦しみを超えるような視点をここに尋ねることができるかもしれません。
 しかしその際には、宗教はアヘンだ、といわれるように、彼は地上の現実を直視する目をされて、心ここにあらず、第三の天に現実逃避しているというわけではない、ということを確認しておかなければならないでしょう。そのためには、彼が天を見つめて、何を見出したかをよく聞き取っておかなければなりません。先ほどの55節には、何と書いてあったでしょうか。

「神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見た」

 彼が天を凝視していたときに見出したもの、それは、彼は、主の変貌の山上にいた弟子たちが見出したもの、後のパウロが見出すことになるものと同様、「神の栄光」であり、その輝きを鮮明に見させる「神の右に立っておられるイエス」の姿でありました。つまり、天の輝きを地にもたらしてくださった人の子を、彼は見出したのです。彼は、天を見つめつつ、地の救いを見出したとでも言えましょうか。
その中で、イエスは「座って」おられるのではなく「立って」おられると書かれています。使徒信条などでわたしたちが告白しているとおり、「主が神の右に座したもう(座しておられる)」、というのが主のこれまでの約束の言葉にかなっていると思うのですが、ここで主は天の王座から身を乗り出しておられるかのように「立って」おられるのです。これは、今にもこの地上の殉教者を天に迎えようとしておられるということなのでしょうか。そうかもしれません。あるいは、「立って」ステファノのいる地上へ降ってこようとでもされているのでしょうか。2章34節で、使徒ペトロが詩篇を引用しつつ、このように説教していたことを思い出します。

「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。』」

 神が敵をその足台となさる日が来る。その日まで主イエスは神の右に座しておられるという約束の御言葉です。となると、今や、敵が最も力に満ちていると思われるこのときに主イエスが王座から立ち上がろうとしているというのはなんと心強いことでしょうか。地上での苦しみは、主が再び来られようとしている今、既に乗り越えられたと言っても過言ではないということになるからです。この解釈が正しいとすれば、天における神の支配が、地上においても現実となるということ、それをステファノは希望としたのだと言えます。

 となりますと、ここで彼が天を凝視する中で見たもの、それは、ステファノが人々に語っていた福音が、やはり現実的、具体的に真実であるという太鼓判であったということもできます。彼は、その説教の終わりに、このような主の御言葉を引用して語っていたのでした。

「天はわたしの王座、地はわたしの足台、・・・これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。」

 人々は、お前が間違っている、神を冒涜しているというけれども、やはりステファノが語ってきたことは間違いのない真実でした。彼はあの「ナザレの人イエス」こそ旧約聖書で預言されていたメシア、「人の子」だ、と語ってきたわけですが、それが全く正しいという保証を今彼が目の当たりにしている光景がしてくれているのです。ここで、何よりの希望は、彼が神を見るという幸いを得ているということです。聖書の中でも神を見ることを許された人の記録は数えるほどしかありません。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と主はかつておっしゃっていましたが、ここでステファノが神を見、神の右に座しておられる主を見ることができているということは、彼がただ正しい、というのではなく、彼が神の御前に心が清いと認められたということです。彼は、「天を見つめ」ることによって、彼の「地上での歩み」が神の御心に適っており、彼は地上におりながら天の御国に国籍を得ているということを知らされたのでした。

 そこで、彼は思わず喜びの叫びをあげました。
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。」
 
 「天が開いて」とわざわざ書いてあるからには、「天」は主を見出すまでは「地上には」閉じられていたということでしょう。人の子という語が主イエスに対して用いられていますが、それは、福音書以外においてはここでだけ用いられている用語です。彼が開かれた天に見出した中心は、「人の子」でありました。人の子の意味は、福音書と同じように、聖書に預言されていた来るべき救い主、メシアのことであると理解して差し支えないでしょう。ただ福音書では、人の子は主イエスがご自分を呼ぶときに用いたものであったのに、ここでは、主イエスでないものが主を呼ぶために用いています。ステファノは、イエスが人の子である、と公に告白した最初の信仰者となったというわけです。十字架にかけられ、復活して天に昇られた主が、今や天地の支配者であるということ、それが、生きるにも死ぬにも、キリスト者の慰めであることを、わたしたちはこの先駆者から教えられるのです。

 さて、ステファノが喜んで告白したこの「イエスは人の子、メシアなり」という言葉は、ますます人々を激昂させました。ステファノは、天を見つめながら、事柄を凝視しながら語っていたのですが、彼が「イエスは主であるとわたしは見ている」と宣言したことは、目を閉ざされ、天を閉ざされていた彼らにとっては恐ろしいと思われるほどの冒涜の言葉にしか聞こえなかったからです。そこで、彼らはステファノの言葉を聞かないように注意して、「大声で叫びながら耳を手で塞ぎ」、律法の規定に従って、彼を聖地から引きずり出して石打ちの刑に処することにしたのです。彼らは見る目ばかりでなく、聴く耳をも失ってしまい、キリストのみならず、キリストの兄弟の血を流す罪に責任を負わねばならなくなるのです。

 いよいよ血を流し、肉を裂かれて死に際していたステファノは、やはり主を見つめて希望に満たされていました。最後の二つの主にむかっての祈りが、そのことを明瞭に語っています。彼は大声でこう祈ったのです。

 「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」
 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」

 それは、主イエスの最後のときの言葉でルカが記録していたものとほとんど同じことばでした(違う点は、父なる神でなく、イエスの御名をとおして彼が祈っている点です。)彼は、生きている間も主と同じ言葉を語り、死に際しても主と同じ言葉を祈った、しかも、イエスの御名とひとつとされるようにして祈ったことになります。まさに、生きるにも死ぬにも主に結ばれており、主と共にいた信仰者、それがこの殉教者であったのです。


 さて、この信仰者は死んだ、、まるで神に見捨てられたかのように命を取られてしまった、それなのにわたしたちは希望をもって主に相対することができるのか。神はしばしば救わないように見える、キリストを述べ伝えるほどに困難が、そして死がわたしたちを襲うような現実がある。そのように死に際してもわたしたちは希望を語ることができるだろうか、そのような問いをわたしたちは、本日の記事にぶつけてきたのでした。どうでしょうか、解決を見ることができたでしょうか。
 わたしは、聖書が、二つの視点から、その答えを与えてくれているように思います。天と、地のそれぞれにおける答えです。

 第一は、これまでステファノの天を見つめる視点から学んできた希望という答えです。それは、「天をみつめ」るとき、主がそこに立っておられるということ。神の右におられる方は、キリストの故に苦しみ、死ぬもののために、つねに神の国の住まいを備えてくださっているということです。天は主の王座であります。だからこそ、わたしたちは、死に際しても、キリストに結ばれて永遠の命に憩うことができるのです。本当の意味で、詩篇30編の詩人の語った救いを語れるのは、この希望に立たされたものではないでしょうか。人々は、敵の手に落ちて信仰者が無残に死んでいくと見るかもしれない、けれども、信仰者がキリストに結ばれて死ぬときは、キリストと共に生きるときであるということをわたしたちは断言してよいと思います。まことに、この死を前にしても、信仰者は、救われた、引き上げられた、と歌うことができるのです。本日の最後のところで、ステファノは死んだ、とはかかれずに「眠りについた」と書かれている点に注意してください。彼は、死んだ、というよりは眠っている。ラザロがそうだったように、キリストと共に目覚め、死を凌駕する永遠の命に生きるものとされているのです。天は主の王座、生きるにも死ぬにも天を見つめる視点を持っている者は、主の王国に国籍を認められた心の清いものなのです。

 第二の視点は、地上においてステファノの命をかけた伝道が決して空しく実りないものではないということから与えられる希望という答えです。ステファノの死は、彼の言葉の真実性をも奪い去ることはできません。地は主の足台、むしろ、彼に敵対していたものこそ、この真実の広がりに服することになると約束されていたのです。そして、実際に、ステファノの希望に満ちた死によって、ますます世の人々が彼の語っていた福音に目を開かれるということが起こってまいります。その伏線として、58節に上げられている名前に注目しておく必要があるでしょう。ステファノの殉教を目の当たりにした若者、サウロという人物の名です。8章1節によれば、彼は、ステファノの処刑に賛成していましたし、実際にその後多くのキリスト者を縛り上げて裁く迫害者となる人物ですが、いうまでも無く、主と出会った日の突然の回心によって主の御言葉を述べ伝えるものとなり、異邦人伝道、世界宣教へと教会の道を開く大きな役割を果たすことになる人物です。ステファノの死が彼に与えていた影響は小さいはずはなく、ステファノは死してなお彼の中で語り続けていたとさえいうことができるかもしれません。バークレーという人は、彼は、生涯、ステファノの二つの祈りを忘れることができなかったであろうと言っています。サウロ、後のパウロが、主の十字架を実際に目撃したという事実は確認されていませんが、ステファノの処刑を実際に目の当たりにし、その祈りをその耳に聞いたことで、この殉教者が拠り所として結ばれていた主の十字架の意味を考えさせられたことだろうと思うのです。ステファノの死は、こうして地上における希望の種となり、異邦人教会という大きな実を実らせることになるのです。そして、その教会の広がりが、現在のわたしたちにも及ぶものであります。

 さて、わたしたちは、天は主の王座、地は主の足台という視点から与えられる大きな希望を教えられました。改めて問いましょう。生きるにも、死ぬにも、みなさんの唯一の慰めは何でしょうか。生きるにも、死ぬにも、わたしたちの唯一の慰め、支え、救いは、天地の主イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださるということではないでしょうか。


祈 祷
 「全能の父なる神よ、あなたは大能の御手をもって、天と地とその中にあるすべてのものを造り、これを保ち、支え、くすしい御旨をもって導いておられます。あなたはまた天地が造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、あなたの民とし、あなたの御心に適った道を歩むものとして、御国の世継ぎとしてくださいました。また、あなたは今もなおわたしたちの只中で大いなる愛を示し、わたしたちの罪を赦し、新しい命によって生かし、あなたの御業に仕える者としてくださっています。わたしたちはいと低きものたちですが、あなたの御業を思い、わたしたちに豊かに確かに注がれている慈しみを思い、みなをほめ、心からの感謝をささげます。
 主よ、わたしたちは、今、ここに、あなたの御名を呼び、その愛をこころから感謝いたします。わたしたちがあなたの大いなる力によって生かされていることを知り、あなたと隣人とを常に愛する生活を過ごすことができるように顧みてください。あなたの御心に適った道を行き、あなたの御子の十字架と復活を常にわたしたちの目の前に覚えて歩むことを得させてください。あなたへの礼拝を中心とするわたしたちの生活を整えてください。
 この君津の地にあるわたしたちの教会の歩み、そして、日本キリスト教会の歩みを導いてください。わたしたちに、あなたの福音をすべての人々に宣べ伝えるための、大きなつとめを果たさせてください。本日行われる柏木教会冨永憲司牧師就職式・住吉教会武田晨一牧師就職式を祝し、新しく歩みだそうとしている教会と教師を導いてください。なお、収穫は多いが、働き手が足りません。牧師のいない教会を省み、牧者を建ててください。神学生の心身を支え、あなたの召しに従う学びと生活を整えてください。あなたの御言葉に使える僕をますます多く立ててくださいますように。
 主よ、あなたは、わたしたちすべてのものの必要をご存知であり、それを完全に満たしてくださるお方です。病気のものを顧み、励まし、支えてください。愛するものを失い悲しむもの、多くの悩みのうちに佇んでいるものを慰めてください。貧しさの中で叫ぶもの、飢え渇いて求めるものを満たしてください。死の領域におびえ、陰府の脅威にさらされているものに、新しい命を教えてください。争いの渦に巻き込まれているもの、ゆえなく捕らわれているもの、圧迫されているものを自由にしてください。重責を担っているもの、特に、国々の代表者、人を裁く立場にあるもの、子供たちに教えるつとめを担っているもの、人の上にたって仕事をしているものが、あなたに対する畏れを忘れませんように。子供たちの成長を見守ってください。信仰が確かにあなたの約束の子らに受け継がれるために、教会・日曜学校が、親が、一人一人が、これを養い育てるつとめをおろそかにせず、愛と義を示していくことができますように。
あなたにある平和でもって、すべてのものを満たしてください。
 どうかわたしたちを御手の導きの内においてくださり、今日から始まるこの一週をあなたにささげ、それぞれの生活の場、それぞれ遣わされた場所であなたに仕えるものとして歩ませてください。主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、ここに集まった一同と共にありますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。