日本キリスト教会 房総君津教会@ 本文へジャンプ
 特別伝道礼拝-5

2009年5月17日 特別伝道礼拝説教(福岡筑紫野教会 藤田英夫牧師)

「恐れることはない」
   
  マルコによる福音書5章21〜43節

 あなたの人生は誰ものだと思いますか、と聞かれたら、きっとすべての人が、それはわたしのものです、と答えると思います。実際、わたしたちの人生は、その人自身が生きていく道のりであって、だれか他の人に代わって生きてもらうというわけにはいきません。その意味では間違いなくその人自身のものです。でも、それは間違いないにもかかわらず、わたしたちは、自分の人生が必ずしもわたしたちの思い通りにはならないことも知っています。
 自分の人生が、100%、自分で考えたり、願ったりしているとおりになっているという人はまずいないのではないでしょうか。生きていれば必ず悩み事が起こってくるし、ときにはにっちもさっちも行かない袋小路に入って抜け出せなくなることもあります。もちろん、うれしいことや楽しいこともたくさんあるのですが、そのときでも、自分の考えたとおりにはならない不思議さを感じることがしばしばです。
 わたしたちにとって、生きるということは、間違いなく自分自身のものでありながら、どこからわたしたちの手から離れたところを持っている、そんなもののように思います。そういうことを感じるとき、特定の信仰を持たない人は、たとえば「運命」というような言葉でそれを表現するのでしょう。
 でも教会では運命という言葉で片付けることはありません。わたしたちの人生は、わたしたちのものでありつつ、それを越えて神のご支配のもとに置かれていると、わたしたちは信じます。そう信じることに矛盾を感じるときも、もちろんあります。信じてはいるけれども、納得がいかない、受け入れられないという出来事を経験しなければならないこともあります。
 ですが、それでも神を信じることはわたしたちに希望を与え、過去を担いつつ現在にしっかり立ち、未来に向かって歩み出していく力の源となってくれます。そう思っているというだけでなく、実際、信仰をもって生きている人はみなそうやって生きてきました。
 信じることは間違いなく力であり希望だったのです。そんな信仰の持つ力を、聖書からご一緒に聞き取りたいと願っています。この礼拝を通して、わたしたちには主イエスというお方がいてくださるということがどんなに慰めに満ちたことであり力強いことかということの一端に触れることができれば幸いです。


 さて、今日ご一緒に聞こうとしているのはマルコ5:21以下に記されている箇所です。ここには二つの出来事が一つのこととして出てきます。一つは会堂長ヤイロの娘に関わることであり、もう一つは12年間病気に苦しんできた女性に関することです。
 このうち、今日は特にヤイロの娘に関わるところを見ていきます。このヤイロという人は会堂長と呼ばれています。会堂長というのは、この当時町々にたてられていたユダヤ教の会堂と呼ばれる建物の管理や運営をまかされている人のことです。この会堂で子どもの教育が行われたり、安息日という休みの日に礼拝が行われたりしていました。その会堂に関する責任をゆだねられていたわけです。
 ですから、このヤイロという人は、このあたりではよく知られた人だったでしょうし、人々から信用され、尊敬されるような人だったのではないでしょうか。おそらく彼は、これまで何の不足もない人生を送っていただろうと思います。
 ところが、このとき彼に大きな問題が起こりました。12才になる彼の娘が病気で死にかかっていたのです。それで彼は、主イエスのもとに来て、娘を助けてほしいと願ったのでした。

 ここに記されているヤイロの姿には、何とかして娘を助けたいと必死になっている父親の気持ちが良く表れています。誰かの足もとにひれ伏すということは、よほどのことがない限りしないことです。一生のうちで一度あるかないかのことだと思います。しかもこの人は会堂長です。この地域では人望も厚く、尊敬もされるような立場にあった人です。
 そういう人が地面にひれ伏して何かを願う、ということはなおさらないことのように思えます。しかし、だからこそ、このヤイロの願いがどれほど真剣なものだったかがわかります。
彼の娘は、このとき死にかかっていました。おそらく、尽くせるだけの手は尽くしたのだと思います。
 25節以下には出血の止まらない女性のことが出てきますが、彼女は12年間、多くの医者にかかったけれども全くよくならなかった、といわれています。同じように、ヤイロも娘を助けようと八方手を尽くしたに違いありません。にもかかわらず、娘は死にそうになっています。おそらく、娘のためにできることは何もないと言うほかないような状況になっていたのでしょう。
 だから彼は、どんな医者のところにも行かないで、主イエスのもとへ来ました。きっと、彼にとっては、主イエスに来ていただくということが最後の頼みだったのではなかったでしょうか。主イエスの足もとにひれ伏すヤイロの姿を思う浮かべるとき、彼がどんなに必死な思いでここまで来たかが想像できるように思うのです。

 ところが、そんな彼の最後の望みを絶ちきるような知らせが届きます。主イエスが出血の止まらない女性と話してしているとき、彼の家から使いが来て、娘が死んだことを知らせたのです。この知らせを聞いたとき、彼はどう思ったでしょう。ここにはそれは記されていません。しかし、彼の気持ちは容易に推測できます。彼は必死な思いで主イエスのもとに来ました。
 そのとき、彼は主イエスにこういっています。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうかおいでになって手を置いてやってください。そうすれば娘は助かり、生きるでしょう」、「娘は死にかかっている、でもまだ死んではいない。だから、今のうちに手を置いてやってほしい。そうすれば娘はきっとよくなるに違いない。」
 彼の言葉にはそんな気持ちが表れています。彼に残された時間はわずかしかありません。
少なくとも彼はそう思っています。だからこそ、彼は必死になって願ったのです。恥も外聞も捨てて主イエスの足もとにひれ伏したのでした。
 その彼のもとに娘が死んだという知らせが届きました。彼はきっと落胆したでしょう。せっかく主イエスに来ていただけることになったのに間に合わなかった、なぜもう少し早く来なかったのか、そんな後悔の念を抱きながら、自分を責めたのではないでしょうか。そして、それは、ここにいたすべての人の思いでもありました。
 家から来た人の言葉にそのことがよく表れています。彼らは「お嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と言いました。子供は死んでしまった以上、先生に来ていただいてもそれは先生を煩わせることにしかならない、と彼らは考えています。
 つまり、主イエスに来てもらっても、何もしていただくことはない、というのです。それこそが、この知らせに接した人の共通の思いだったに違いありません。そして、すべての人がヤイロのために、そして娘のために心を痛めたのだと思うのです。

 ところが、その中で、たった一人、主イエスだけは違いました。主イエスはヤイロに言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」 一体何を「恐れるな」というのでしょう。また、何を「信じる」というのでしょう。娘は死んでしまったのです。これ以上何をどうしろというのでしょう。おそらく、この言葉を聞いたヤイロはそう思ったことだと思います。
 でも、ここで主イエスはヤイロを励まし、ここでもう一度ご自分を見上げるよう励まされるのです。ヤイロは、死にそうになっている娘のために、主イエスのもとに来ました。そのとき彼は、最後の望みを主イエスに託していたはずです。どんな手を尽くしても助けることができず、死にそうになっていた娘とヤイロにとって、主イエスは最後に残されたたたった一つの希望でした。
 でも、娘が死んだと知らされたとき、その最後の希望が潰えたとヤイロは感じました。でも違う、と主イエスは言われるのです。ヤイロが主イエスに託した望みは、娘が死んだ今もなお消えてしまうことなく、希望であり続けている、それは今このときも消え去ってはいないのだ、と言われるのです。ヤイロはこのとき、主イエスに託した最後の望みが消え果て、すべてが手遅れになってしまったと感じていたはずです。
 その思いの中で、彼は必死になって主イエスだけを見つめていたその目を主イエスから離そうとしています。もはやどこにも、何の希望も見つけることはできないという絶望に沈み込みそうになっているのです。その彼の目を、主イエスはもう一度ご自分に向け直させます。
 娘が死んだ今こそ、あなたの目をわたしに向けなさい、といわれます。あなたの希望は今もまだここにある。それが「恐れるな、ただ信じよ」という呼びかけなのです。

 そして、この呼びかけに応えて主イエスを信じるものとして立つとき、すべての道がふさがれたと思えるそのところに新しい道が開かれるのです。娘の死が知らされたとき、すべての人がそこに立ち止まりました。死が訪れたその瞬間、もはやそれ以前と同じように歩くことはできなくなったのです。ここから先、彼らにできることがあるとすれば、娘の死を悲しみ、悼むことだけです。
 けれど、主イエスだけは前進することをやめません。娘の死を悲しむためにではなく、娘を生きたものとして取り戻すために、ただ一人、確信を持って進んで行かれるのです。主イエスを信じるとき、この主イエスの後について、ここからさらに前進することができるのです。
 ここまではヤイロが主イエスの先に立って案内してきました。でも、それは娘の死によって終わります。彼が自分の力で何とかする道は、これ以上先に伸びることはありません。死は、わたしたちの前から完全に道を断ち切ってしまいます。
 でも、ここからは主イエスが彼を連れて進んで行かれます。その道は、たとえ死によっても閉ざされることはありません。主イエスは死んだはずの娘を、眠っているだけだ、とおっしゃり、本当に眠った子を起こすように、娘を立ち上がらせてくださいます。主イエスの前では、人の死さえも行き止まりにはならないのです。

 主イエスはご自身、十字架にかかった後、復活なさいました。そのことによって、神の力はが死にも勝るものであることが証しされました。主イエスの後について進む道のりは、死をさえも乗り越えていくのです。このことは、わたしたちに励ましと希望とを与えます。
 わたしたちも、ヤイロのように、いろんなことで行き詰まります。その最大のものは死です。しかし、どんなものがわたしたちの前に立ちふさがり、わたしたちの進むべき道を断ち切ったとしても、わたしたちが行き詰まることは決してありません。
 なぜなら、わたしたちの前にはいつでも必ず一つの道が開かれているからです。その道は、恐れるな、ただ信じなさい、という主イエスの声に従い、神の言葉の中に自分の歩むべき道を求めることです。「信じたからといってどうなるのか」とか、「神など何の助けにもならない」という声は様々に聞こえてくるでしょう。
 しかし、その中で恐れず信じることがわたしたちの前に道を開くのです。恐れず信じるとは、何も考えず、お題目のように何かを唱えることではありません。まわりの声に耳をふさいで、一心不乱に自分の世界に没入することでもありません。
 自分がおかれているその現実の中で神に従うこと、神の御心を聞き取り、それに従って生きることをまず第1のこととして据えていくことです。神は、力を尽くし、心を尽くして主なる神を愛せよ、自分自身のように隣人を愛せよとお命じになります。この神の戒めに従うとはどうすることかをいつも問いつつ、神に従うものとして生きようとするのです。
 そのとき、わたしたちには思いもしなかった道が開かれていくということが起こるのではないでしょうか。その道は、やがてわたしたちに死の時が訪れたとき振り返ってみるならば、わたしたちは間違いなく神のものであったということを確認させてくれる道として刻まれているはずです。そして、神のものであるということは、死によっても終わることがなく、いつまでも変わらない事実であるということを信じさせてくれるはずです。
 わたしたちは、死の床に臨んでいてさえ希望を見ることができるのです。恐れることはない、ただ信じなさい、と主イエスは言われます。恐れず信じること、どんな時も主イエスの教えの中に答えがあることを信じて、祈り求めながら、主イエスの後についていくものとなること、その時に、わたしたちの前にも、ヤイロがたどったのと同じ道が開かれるのです。


 つい最近、生まれて数ヶ月の子供を失った家族に会うことがありました。昔からの知り合いなのですが、はじめそのことを聞いたとき、何と声をかければよいか分からず、言葉に詰まってしまいました。
 ですが、その人は言うのです。たった何ヶ月しかわたしたちのもとにはいなかったけれど、本当にたくさんの恵みをもたらしてくれた。この子がいなかったら知ることのできなかったたくさんのことを知ることができた。神さまは本当によいことをしてくださった。
 どうしてそんなことが言えるのでしょう。どう考えてもつらい出来事のはずです。理解することのできない、そして受け入れることのできない出来事のはずです。それでもその人は、その子どものことを静かに、そのまま受けとめるのです。悲しくないはずがありません。なぜこんなことがと、誰かにあたりたくなる気持ちがないと思いません。
 でも、その悲しみや怒りの中で、最後の望みを神に託するのです。その子はこの世に生まれてたった何ヶ月しか生きなかったけれど、そしてどうしてそんなことになってしまわねばならなかったのか、自分では全く説明はつかないけれど、しかし、それでもその子は間違いなく神の御手の中に置かれていたし、すべてが神のご支配の中にあったことなのだ、と信じるのです。
 死んでしまったことはつらいはずです。けれど、死んだからといって、そのこの存在が無になってしまうわけではありません。神はそのこのことも、自分たちのことも確かに覚えていてくださり、愛してくださっていると信じています。
 人の命に意味や価値があると言いうるとするなら、それは、その人のことを愛してやまない人がいるということによります。その人自身に何ができるかとか、どんな役に立ったかということではなく、その人のことを決して忘れない誰かがいてくれるということが、その人の命の尊さを支えるのです。そしてその誰かに、神がなってくださっているという信頼が、幼い子どもを亡くしたその家族を支えているように思いました。
 死は、わたしたちからすべてを奪い取っていきます。しかし、そんな死の力にも屈しない希望が神のもとにはあります。主イエスを復活させた神の力は、わたしたちを新しく生かすために今も働いています。そのことを、心にとめたいと思います。
 そして、「恐れるな、ただ信じよ」と語りかけてくださる主イエスに向かって顔を上げ、このお方に従う道を歩み始めていきたいと思います。そのとき、わたしたちも、自分や、また隣にいる誰かのことを本当に大切なものとして覚えながら、永遠の命につながる道を歩み始めるのです。