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 2012年秋の特別伝道礼 拝(2012年9月23日)

2012年9月23日 特別伝道礼拝説教(雲雀ヶ丘伝道所牧師 吉平敏行先生)

「キリストのもとに憩いがある」
   
  ヨハネによる福音書8章1〜12節

  ここは、イエス様に突きつけられた問題としては一番の難題かもしれません。姦通の現場で捕えられた女は、問答無用の現行犯です。律法学者、ファリサイ派の 人々とは、当時の社会の見張り人ですが、その女を公衆の面前に引っ張り出して、イエス様に「さあ、あなたはこの女をどうなさいますか」と問い詰めるので す。女は何も言えません。半ば覚悟を決めていたでしょう。何とかしてイエス様を訴えようと企む見張り人たちに、イエス様がどう答えるかが注目されます。
 ところが結末を見ますと、彼女は石打にされていません。無罪ともされていません。イエス様も「これからは、もう罪を犯してはならない」と戒めていますか ら、やはり罪を犯していたのでしょう。情状酌量でも、執行猶予でもなく、この件に関しては一件落着しています。彼女は、この後もこの社会で暮らしますが、 もうこの件で問われることはありません。人々も、問いません。ただ、私たちには大変興味深いことですが、彼女の信仰については何も書かれていません。彼女 の信仰が深かったから罰を免れた、という話ではないのです。
 特別な奇蹟も起こっていません。社会の犯罪に関わる問題が的確に処理されたのです。イエス様の一言で、状況が一変しました。人々は一人、また一人と去っ て行ったのです。それで、彼女は処罰を免れました。病気が治った、悪霊が追い出されたという話ではなく、罪を犯して処罰されるはずの女が、イエス様のこと ばによって救われたという話です。
 ある意味で、「イエス・キリストが地上で罪を赦す権威を持っている」ことが公衆の場で示されたと言えるでしょう。しかも、宗教上の概念としての「罪の赦 し」ではなく、実際に犯罪の処罰を免れた話です。イエス様の言葉が、大きな力を発揮しました。ただ、大声を出したり、脅したり、圧力をかけたりしたわけで はありません。むしろ、イエス様は地面に字を書いたりして、極力関わるまいとされています。イエス様といえども、モーセの律法が相手ですから、決して軽く 扱える一件ではありません。一旦罪を犯した人間が罰を免れるということが、どうして起こったのかを伝えています。法を第一とするユダヤ社会では、ある意味 で奇蹟です。

 今日は、言葉が軽くなったと言われます。政治家の言葉がそうであり、学者や専門家の言葉までがそうなって来ています。語った言葉の責任を最後まで取ろう としません。「どうせあんなうまいこと言ったって、やりはしない」とか「言うだけなら、何とでも言えるからね」といった批判を耳にすると、語られた言葉が まったく信頼されていないのを感じます。語った言葉と、その言葉が持つ意味がかけ離れてしまっている。言葉は言葉、現実は現実という具合に、使い分けてし まっている。今は、そのような時代です。
 そんな風潮は、聖書のことばに対しても見られます。イエス様の言葉も、どれほど重く受け止められているでしょう。大切な言葉が、今日的な感覚で、単なる 掛け声や同情、気休めとして受け取られていないでしょうか。イエス様は、「わたしの責任において、わたしはあなたを罪とはしない」、「わたしはあなたを責 めない」、という断固とした姿勢を示されたのです。イエス・キリストが「わたしはあなたを罪に定めない」と言われたのだから、本当にその通りなのだ、と受 け止めねばなりません。今日、私たちはそういう受け止め方をしているでしょうか。
 たとえ事情はどうであれ、イエス様のところへ連れて来られた者に「わたしもあなたを罪に定めない」と仰って下さいます。いや、私の場合はもっとひどいで すから、と言っても、やはり主は「わたしはあなたを罪に定めない」と言われる。クリスチャンは、このイエス・キリストの宣言を自分のものにしています。数 々の失敗や罪を犯して来た身であっても、イエス・キリストのもとにいるなら、やはり主は「わたしはあなたを罪に定めない」と言われます。今日、初めて教会 にいらした方々も、この場におられるなら、このイエス・キリストの言葉がそのまま当てはまります。そして、イエス・キリストが罪に定めないということがど れほど自由な生き方を与えるかを知って頂きたいと思います。
 イエス様が朝早く、神殿の境内で人々に教えておられたその場が急に騒がしくなります。律法学者とファリサイ派の人々が、一人の女を物々しく引っ張って来 たのです。おののく女性を、人々の真ん中に立たせます。群衆はにわかに事情をつかめませんでした。すると、律法学者らは、この女は姦通の現場で捕まえられ たのだと言います。モーセの律法によれば石で打ち殺せと命じているけれども、イエスよ、「あなたはどうお考えになりますか」というのです。ただ、著者ヨハ ネは、「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言った」(6)と記しています。
 申命記には「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」(申命記 22:22)とあります。相手の男のことは、今はおきます。もしイエス様が、「その通り、石で打ち殺しなさい」と答えれば、リンチを禁じるローマの法に反 することになりますし、群衆の評判も落とすことになるでしょう。しかし、「赦してあげなさい」と言えば、モーセの律法に背くことになり、それこそ訴える口 実を与えることになります。女を助けたくとも、厳然とした法がある限り、法が力を持ちます。それに、この罪はお金で償うことはできません。死刑あるのみで す。

 あるとき、クラスの一人の財布を盗まれたというケースを考えてみましょう。大騒ぎとなり、クラスで犯人探しが始まり、ついに盗んだ生徒を突き止めまし た。一人が怒りに任せて「こんな奴は、学校から追い出せ、退学だ」と言い始めたら、クラス中の大合唱になった。そこに良心的な一人がいて、その同級生を最 悪の事態から助けたいと思っています。クラス中が退学を求める状況で、どんなことばを発したらその人を助けることができるでしょう。
 まず浮かぶのは「何も、そこまでしなくても良いではないか」という提案です。善良な人たちであれば思い浮かぶ言葉でしょう。過激なことは止めて、無難に 収めようではないか、というのです。ところが、それは加害者に甘くすることでもあり、下手をすると、逆に被害者を傷つけることになります。今日の死刑制度 でも被害者家族への配慮がなされるところです。法の公平さをいうことも考えねばなりません。中には盗まれた被害者に向かって「彼だって反省しているんだか ら、彼を赦すべきではないか」とか「あなたにも落ち度があった」などと、加害者を弁護する人も出て来ます。そういう意味で「何も、そこまでしなくても良い ではないか」ということばは無難なようでいて慎重を要します。
 次に浮かぶのは、「だれだって魔が指すってことはあるではないか」ということばです。それぞれ自分を問うてみれば、実行しなかっただけのことで、欲しい と思うことはある。彼は、その誘惑に負けたのだ、という説明です。それも分かります。しかし、聞きたいのは、そこからです。だから「何も、そこまで厳しく 責めなくても良いだろう」ということになるでしょう。ただ、決して赦すまいとしている人の良心に訴えることはできます。
 最近のスーパーやコンビニでは、「万引きは犯罪です。発見した場合は直ちに110番通報します」と、半ば脅すような張り紙がしてあるのを見ると、赦しを 乞うこと自体が厳しい時代なのだなと思います。社会に余裕が無くなっています。

 交通違反のようにお金を払って済むというのは簡単です。この場合は、死刑あるのみです。法を守らせる立場からは、当然死刑を要求します。決して律法学者 やファリサイ派の人々の要求が間違っているわけではありません。しかし、彼らの問題は、この一件を利用してイエス様を陥れようとしていた点です。彼らの悪 意を見抜いたイエス様としては、この女を救いたいと思われたでしょう。
 あたりが騒然とする中で、イエス様はかがみ込んで、指で地面に何やら書き始められます。女を正視しないための思いやりかもしれません。人々が訴える声を 無視しているかのようにも見えます。イエス様を問いつめる声は止みません。ついに、イエス様は身を起こして言われます。「あなたたちの中で罪を犯したこと のない者が、まず、この女に石を投げなさい」。
 申命記に「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。死刑の執行に当たっては、まず証 人が手を下し、次に民が全員手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない」(申命記17:6〜7)とあります。現場を押さえた証 人がいるはずですから、まずその人たちが彼女に石を投げればよかったのです。しかし、彼らの目的は、イエス様を陥れることでした。イエス様は、この女を赦 してあげよ、とは言われません。むしろ、「この女に石を投げよ」と言われます。しかし、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず」であります。 あるいは、「まず証人が手を下しなさい」とは仰らず、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず」と仰られました。この一言です。

 「罪を犯したことのない者」とは、とがめなき者、という意味です。自分を吟味して、とがめがないと思う者が、まず、最初に女に石を投げよ。石は投げて良 い、しかし、まず、自分の心を吟味せよ。石を投げようとする者は、先ず、自分自身の中に罪があるかどうかを吟味してから行え。
 この一言を聞きながら、敢えて石を投げるとすれば、それは、自分には何ら罪がないことを表明することになります。だれが、そんなことできましょう。この イエス様の「あなたたちの中で罪を犯したことのない者」の一言で、その場の全員が、自分の罪を自覚させられたのです。「人間はみんな罪人だからなぁ」など という、痛くも痒くもない話とは違います。イエス様は、一人一人に問われるのです。人を裁こうとするあなたに、本当に罪はないのか?
 イエス様は、そう言われた後、再び身を屈めて、何かを書き始めます。そのことばを聞いた人々は、年長者から順に一人また一人とその場を去っていきまし た。カルヴァンは「他の人たちより権威と名誉の点ですぐれている度合いに応じて、それだけ自分の有罪性を痛感した、ということである」と説明します。罪に 対してこういう受け止め方ができる社会の健全さを示しているのであります。これが日本なら、そのまま石を投げるかもしれません。
 法はその社会で正義を保つこと、あるいは正義を行わせることが目的です。ただ、法を守れば、正義が貫かれるというものでもありません。人間の持つ正義感 は、しばしば人を責めて止みません。自分は法を守っている、間違っていないとの思いが、法を破った者を厳しく責めるのです。この女は、モーセの律法を破っ たのだから、石打は当然だ。そこに、一歩も譲歩する気配はありません。しかし、イエス様は、空気を一転させました。責め続ける空気が、イエス様の一言で瞬 時に消えたのです。自分に罪があると分かった瞬間、人を責める空気が消えました。イエス様は、こうした人間の正義感から来る怒り、それが人を死に追いつめ るものであることをご存じでした。本来人を守るための法が、人を死に追いやるのです。イエス様の一言によって、彼女を責め、裁こうとする人々の手が萎えた のです。イエス様の言葉に力がありました。
 イエス様は女に尋ねます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女は、「主よ、だれも」と答えます。それは、 その場に「だれもいなくなった」という意味ではありません。「だれも私を罪に定めませんでした」ということです。みんな消えてしまった。そこで、イエス様 は「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです。ただ一人、罪がないという点では、彼女を罪ありと宣言できる方が、「わたしもあなたを罪としない」 と仰ったのです。もはやこの件で、彼女を罪に定める者はいなくなりました。

 私たちは、みな罪ある人間です。夫々が過去を振り返るとき、自分はこれまで罪を犯さなかったと言える人はいません。犯罪を犯したという次元ではなくて も、良心に照らして全くとがめがない、と言える人はいないでしょう。詩編の作者は、若き日の過ちを思い出さないで下さいと主に懇願しています。善いことを しようと決心しても、それを守れず、むしろしてはいけないとされる悪を行ってしまう。感情を押さえきれずに、言い放ち、抑えが利かなくなり、悔いる。ある いは、嫌みを連発する。夫婦の間で、親子の中で、職場で、しばしばやってしまう失敗です。中には、そういう自分が嫌で、自分を責めて、責めまくる人もいま す。自分を自虐的に表現して、終わらせる人もいます。その悔いがあまりに大きく、死を望む人もいます。人間の心は、本当に複雑です。我々が理性と呼ぶもの には限界があるのです。ニュースで「カッとなって、刺してしまった」などというのを聞くと、これは人ごとではなく、自分にも起こりうる、深刻な人間の罪の 問題なのだと思います。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず」の一言で、人々は一人、また一人と去って行きました。イエス様とこの女が残されました。イエス様が 罪に定めなければ、だれ一人彼女を罪に定める者はいなくなります。イエス様は、一人その場に立たれ、女に「わたしはあなたを罪に定めない」と言われたので す。

 イエス様の発した一言にどれほどの力があったでしょう。イエス様が、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われると、風は止み、すっかり凪ぎになりまし た。ここでは知恵を用いた静かな一言をもって、自分は正しいとする者たちを一掃されました。聖書は「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を 探し求める者もいない。皆迷い、だれも彼も役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ3:10〜12)と言います。神の 言葉は、私たちの心の隅々までサーチライトのように照らし出し、ありのままの姿をあぶり出します。あらゆるごまかし、不正と不公平があることを示し、私た ちに絶対的な正しさがないことを教えます。
 主は、み言葉によって私たちの罪を明らかにされますが、やはりみ言葉をもって罪を悟った者に「わたしはあなたを罪に定めない」と言われます。こうして、 本当の罪は、私たちに啓示されるのであり、同時に、啓示によって、罪に定められないことを知らされます。それゆえ、罪に悩む者たちに、イエス・キリストは 罪を赦すことができる、という希望が与えられます。
 パウロは、良いものであるはずの法が人を生かすようには働かず、かえって人を動かなくさせ、死をもたらすと言いました。本来人が正しく生きるために定め られた法ですが、人の体の中にある罪のために、正しい法が守りきれず、一旦法を破ったりして罪責感が起こると、今度はその法が人をジワリジワリと追いつめ ていくのです。自分では正しくありたいと望みながら、体や感情がそう反応せずに、思いがけない結果を引き起こす。食欲がそうであり、性欲、憤りもそうで す。共に与えられているものですが、頭で考えているようには体や思いはついて行きません。その人が気付かずにいる力が、思いがけない悪を行なわせるので す。それを聖書は罪と呼びます。私たちが通常「罪」と呼ぶものは、その根本にある力が引き起こした結果としての罪と言えます。イエス・キリストは、この実 感し得ない罪を取り除くために来られた方なのです。私たちを裁くためではなく、私たちと同じようになられて、ただただ、私たちのその罪を取り除くために来 られたのでした。
 パウロも、その罪が自分の内にあることを知ったとき、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれる でしょうか」と叫びました。そして、すぐさまこう言うのです。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」彼は、その罪のために主イエ ス・キリストがおられることを告白します。体には依然としてその罪があって、地上ではその不自由さの中にいるのですが、心の中では、その罪から自由にされ て生きることができるのです。
 パウロは、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8:1)と言いました。イエス・キリストに 結ばれているとは、イエス・キリストの中で生きること、こうしてキリストの体である教会につらなって生きるということです。なぜなら、ここにおられるイエ ス・キリストだけが、私たちに「わたしはあなたを罪とはしない」と仰って下さるからであります。その言葉を聞かねばなりません。そして、そのことを示され たのが、イエス・キリストの十字架の死であります。言葉だけでそう仰ったのではありません。人間が罪に定められないために、身代わりとなって死んで下さっ たのです。語られたことと行いが一つとなっているのはイエス・キリストだけです。だから、このイエス様の言葉を信じて、このイエス・キリストに結ばれてい る者は、決して罪に定められないのです。イエス様が「わたしはあなたを罪に定めない」と言っているのです。

 もう一度、静かにこれまでを振り返ってみたいと思います。自分は正しいなどとは思わないかもしれませんが、少なくとも間違ったことはしていないという思 いで、いつの間にか相手を責めていたことはなかったか。失敗した者を責めてはいなかったか。いつでも「こうあるべき」で生きて来た人は、その「べき」はど こから来たのでしょう。自分を正しいとする思いが、周囲の人との間に摩擦を生んで来たことはなかったでしょうか。
 そんな私たちに今日、主は尋ねられます。「あなたはそこまで正しいのか」「その基準を自分に当てはめても、あなたは大丈夫なのか」、「そうあるべきとい うその「べき」は、だれが定めたのか。」
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、その人を責めよ」この言葉に、すべての人は自分の罪を自覚せねばなりません。正直に問うて、この言 葉にNoを言える者はいないのです。イエス・キリストは、それでも「わたしはあなたを罪に定めない」と仰って下さいます。その罪のために、わたしは死んだ のだから、と言われます。何やら立派だからクリスチャンになるのではありません。クリスチャンとは、イエス・キリストのこの言葉で自分の罪が示されて、そ の通りですと認め、その罪がイエス・キリストの十字架によって完全に赦されるということを信じた者たちのことです。クリスチャンこそ、自分の罪を自覚し、 その罪の赦しの中を生き続けることに決めた人間なのです。
 イエス様はこの出来事の少し前でこう言っています。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るように なる。」罪が赦されてこそ、私たちを今まで縛り付け、ギリギリと苦しめていた過去から解放され、本当の自分でいられることを知ります。イエス・キリストに よって本当の憩いが得られるのです。今までがどうであれ、それ故どんなに深い失望と挫折の中にいても、イエス・キリストが今日、あなたに「わたしはあなた を罪に定めない」、わたしがあなたのために死んだのだから、わたしとともに新しく生きよ、と仰ってくださっています。
 教会こそ、このイエス・キリストがあなたをその罪の赦しと憩いへと招いておられる所なのです。