日本キリスト教会 房総君津教会@ 本文へジャンプ
 2013年春の特別伝道礼 拝(2013年5月26日)

2013年5月26日(春の特別伝道礼拝説教)  習志野教会牧師小坂宣雄先生

「わたしは羊のために命を捨てる」

          詩編23篇1~6節,ヨハネによる福音書10章11~18節

  今 朝房総君津教会の教会建設55周年を記念しての特別伝道礼拝にお招きいただきましたことにまず感謝を表したいと思います。わたしの仕えております習志野教 会はこの教会の教会建設10周年を記念して1968年に開拓伝道として始まりました。習志野教会が今日あるのはもちろん聖霊の御業によることであります が、この教会の開拓伝道の志なくして有り得なかったわけで、房総君津教会に改めて感謝を表したいと思います。

 さて、今日は伝道礼拝ということで、ヨハネによる福音書10章11節から18節のところをお読みいただきました。このところからイエス・キリストという 方のことをご一緒に考えてみたいと思います。早速ですが、先程読んでいただきました11節のところをもう一度読んでみましょう。「わたしは良い羊飼いであ る。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。このように言われておりますが、こう語りかけておられますのは、主イエス・キリストという方であります。ここで 主イエスはご自分を「羊飼い」、わたしたちを「羊」と呼んで、話しておられます。しかし、この言葉は一度ならず何度も出てきており、14節でも「わたしは 良い羊飼いである」と言われ、15節の終わりでも「わたしは羊のために命を捨てる」と言われています。さらに、「命を捨てる」という言葉は、17節と18 節でも続けざまに出てまいります。このように、主イエス・キリストがわたしたちに向かって語りかけておられ、わたしたちが聞かなければならない中心的メッ セージはこれであります。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ということであります。

 ところで、主イエスが繰り返し繰り返し語りかけておられる「わたしは良い羊飼いである」とはどういうことなのでしょうか。主イエス・キリストが「わたし は良い羊飼いである」とおっしゃっておられるのは、良い羊飼いはたくさんいるが、わたしもその一人であるということではありません。もともとの文章の表現 では実のところ、「わたしこそ、わたしだけが良い羊飼いである」という強い意味が込められております。わたしたちはなかなかこのようには言うことができな いのではないでしょうか。「このわたしこそ、わたしだけが良い父親である。良い母親である」などと口にしたらどうでしょうか。周りから正気なのか疑われる のではないでしょうか。しかし、イエス・キリストという方はご自分からこのように宣言してはばからないのですね。この「わたしは良い羊飼いである」という 言葉はイエス・キリストの自己宣言であると言われます。わたしたち羊に向かって真実に率直にこのようにご自分から不明瞭にではなくてご自分のことをはばか らず宣言しておられるということであります。

 聖書全体を読んでみて気付くことでありますが、「わたしこそ良い羊飼いである」という自己宣言は聖書の中では「わたしは主である」とか「わたしは神であ る。このわたし以外に神はいない」という自己宣言と大変似ている、いやむしろ同じだと気付かされるのであります。そうすると、イエス・キリストが「わたし は良い羊飼いである」ということは、取りも直さず私たちの主である神がこのように自己宣言なさっておられるということであります。つまり、わたし以外にこ のような神、主はいないと宣言し、わたしたちに何とかそれを分からせようとしておられるのであります。ご自分の正体をはっきり知らせようと宣言しておられ るのです。それは他でもなく、このような神の愛から迷いで出ないように、わたしこそあなたたちの神であり主であるということであります。

 さらに、主イエスは「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と続けて言われております。このわたしたち羊のために「命を捨てる」とは、この主なる神はどん なに私たちを愛しているかということを示しております。「命を捨てる」ほどまでに、私たちを愛しているということであります。このことは後でも触れたいと 思います。羊は動物の中でもとくに弱い動物であります。いつも群れをなしているわけですが、一匹になると必ず道に迷って行き倒れになってしまいます。だれ かと一緒にいないと、結局命を失ってしまいます。ここには狼のことが出てきておりますが、「狼は羊を奪い、また追い散らす」と激しい言葉で言われておりま す。狼などに命を狙われてしまうと自分を助ける術はないのであります。良い羊飼いが一緒にいないと、生きれないのです。自分の命を失ってしまうということ であります。

 今朝ここで有名な旧約聖書の23篇を読んでいただきました。その最初でこう歌われておりました。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」と。そ うです、「良い羊飼いである」わたしの主、わたしの神が一緒であれば、「わたしには何も欠けることがない」のであります。良い羊飼いであるわたしの主、わ たしの神は「わたしたちを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、疲れ果てた魂を生き返らせてくださる」ので、「死の陰の谷を行くときも、災いを恐れ ない」のです。死を恐れない人はいないでしょう。誰しもがどこかで死を恐れているのです。しかし、良い羊飼いであるわたしの「主が共にいてくださるので、 わたしは恐れない」と歌われているのです。主イエス・キリストはこのような意味で「わたしは良い羊飼いである」と言われるのであります。

 きょうお読みいただいたヨハネによる福音書10章14節、15節をもう一度読んでみます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、 羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」。このところで、イ エス・キリストは「わたしは良い羊飼いである」と言われ、「わたしは自分の羊を知っている」と言っておられます。私たちは自分のことは自分が一番良く知っ ていると思っておりますが、本当にそうなのでしょうか。そうではないのです。「わたしは良い羊飼いである」わたしたちの主、わたしたちの神こそがこのわた しのことを知っていると言われるのであります。見てきましたように、「良い羊飼い」が一緒でなければ生きれない。自分の命を失ってしまうということを、わ たしたちの主なる神が最も良く知っておられるのであります。しかも、そうであるからこそ自分の羊を、ご自分の命を捨てるほどに愛しておられるのでありま す。

 このヨハネによる福音書15章13節で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われております。「良い羊飼い」が、自分の 羊のために命を捨てるのであります。この愛は愛と言われるものの極致であり、これ以上の愛はありません。そのような極致の愛をもって良い羊飼いイエス・キ リストは「わたしは自分の羊を知っている」と言われ、羊のため、私たちのために命を捨てると言われるのであります。

 しかし、続いて「良い羊飼い」である私たちの主イエス・キリストは「羊もわたしを知っている」と続けておられます。羊もちゃんとわたしを知っていると言 うのであります。ある求道者のことを思い起こします。40歳すぎて失明された方でした。家族の方が信仰を持っておられて、その方と一緒に来られました。彼 は「神様がおられるなら、どうして自分だけがこんなに不幸になるのか」と、大変挑戦的で反抗的でした。しかし、ある時点から何が起こったのか分かりません が、「イエス様は十字架に張り付けになって苦しかっただろう」と涙ぐんで言い出しました。それこそこの私は、わたしだけは「良い羊飼いである」と語りかけ ているイエス・キリストはこの自分のためにどれほど苦しみながらその命を捨ててくださったことか、その神の愛、神の極致の愛をこの人は分かり始めたのでし た。

 わたしは「良い羊飼い」であると言われるこのイエス・キリストが「わたしは羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われているのであります。しか も、「羊もわたしを知っている」と言われ、約束されていることが、この私たち羊のためにも「良い羊飼い」であると知る時が来るのであります。それは喜びの 時であり、救いの時であり、感動の時でありましょう。その時がいま既に来ています。その時はこの礼拝の中で、きょう「良い羊飼い」であるイエス・キリスト が「羊もわたしを知っている」と言われのを聞く時に、すでに来ていることを私たちは知るのであります。この礼拝の中で、また毎週の礼拝の中で、この「良い 羊飼い」である私たちの主、私たちの神に出会っているのであります。出会っているはずであります。

 お祈りをいたします。「神さま、私たちはきょうイエス・キリストが良い羊飼いであり、羊たちのためにその命を捨ててくださったことを知り、あなたの計り 知れない極致の愛に感謝します。良い羊飼いがこの私たちを知っているように、私たちも良い羊飼いイエス・キリストがこのわたしの羊飼いとして実在するこ と、御言葉を聞くために現臨しておられることを深く知る者としてください。房総君津教会は習志野教会の産みの母です。どうか房総君津教会の上に豊かな聖霊 を注いでください。この地で御国の使命のために貴く用いられ、この地であなたの栄光が表されますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン」