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2013年特別伝道礼
拝(2013年7月21日) |
2013年7月21日(特別伝道礼拝説教) 浦和教会牧師 三輪地塩先生
「敵を愛することは可能か」
マタイによる福音書5章43-48節
今日は房総君津教会の主日礼拝を共に守る事が出来、心から感謝致します。神学生の時に一度だけお邪魔した事があります。又、千葉三教会の夏期修養会にも
一度参加させて頂いた事もあります。そのような懐かしい思いと共に、今日の一日が与えられた事を、心から嬉しく思っております。
さて、今日私たちに与えられました御言葉は、「あなたの敵を愛せよ」という、大変に深く難しい言葉であります。今日はこの箇所から主の御言葉に共に聞きたいと思います。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」このように言われているのです。
「あなたの隣人を愛せよ」という事は、私たちの良く聞くところです。旧約聖書の中でも特にレビ記の中で言われており、主イエスもその事を指してこのよう
に言っているのです。ある律法の専門家がイエスのもとにやって来て「律法の中でも最も重要な掟は何ですか?」と問う場面がありますが、主イエスは。「神を
愛せよ、あなたの隣人を愛せよ」とお答えになりまして、律法はこの二つに集約されるとお答えになったわけです。
ここで「隣人」と言われておりますが、当時イスラエルでは「隣人とはイスラエル人」、つまり「同じ民族の同胞たち」の事でありました。レビ記ではその同胞の事が言われていたのです。
しかし主イエスは、この隣人愛の範疇を限りなく広くしたのです。それこそが「あなたの敵を愛せよ」という言葉に集約されているのです。今日の説教題にも
致しましたが、この「敵を愛する」、という行為に関して、皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか。このように聖書に書かれているから、じゃあ明日
から私も敵を愛しましょう、というように、おいそれとすぐに敵を愛する事が出来たならば、そんなに簡単な事はありません。私たちが今日のイエスの言葉に戸
惑い、躓くのは、これが私たち人間に本当に可能な事なのか、否、私たち罪深き人間には不可能な命令なのではないかと思うからであります。つまりこの聖書の
言葉は、私たちにとって躓きであり、難問であり、解決不可能な命題であると思われるのです。
そもそも「敵」というのはなんでしょうか。敵とは「いてはいけない相手」「存在してはならない相手」でしょうか。そうではありません。「敵を愛しなさ
い」と言っている以上、主イエスご自身が敵の存在を認めているのです。つまり敵と呼ばれるものが、世の中に存在するんだ、という事をイエス自身が知ってい
るのです。
普通に考えてみると、私たちの生活の現実の中で、敵の無い生活という事はあまり想像できません。「敵を作りやすい人」や「あまり作らないで過ごせる人」
などのように、その多い少ないという事は当然起こり得ますけれども、「敵が全くいない人」「憎まれた事が無い人」というのは、極めて稀なのではないかと思
うのです。事実、主イエス・キリストは、神の御子でありながら、その周りには大勢の敵で溢れ返っていました。又、キリストの教えを異教に伝えた、キリスト
教会最大の宣教者であるパウロは、最初はキリスト者から敵と見做され、キリストに回心してからは、ユダヤ人たちから敵と見做されておりました。どんなに素
晴らしい人生を歩んでも、どんなに正しい行いをしていたとしても、その人に敵は存在するのです。マハトマ・ガンディーも、ネルソン・マンデラにも、マー
ティン・ルーサー・キングにも敵はいたのです。彼らは非暴力運動の指導者でありましたが、暴力によって幾度となく辛い目に遭ってきた人たちであります。キ
ングに関しては、志し半ばにして敵対者の銃弾に倒れるという非業の死を遂げる事になった事はご承知の通りだと思います。
人間には殆どと言って良いほど敵がいます。日本のことわざの中にも「男は敷居を跨げば七人の敵がいる」などと言うものがあります。言い方はいくつかある
ようですが、つまり、「男には外に出たら七人の敵がいるのだから、いつも注意深く油断のない言動をしなければならない」という教訓の諺であります。これは
男に限定されていますが、勿論男女問わず、でありましょう。
確かに世の中には、多くの考え方があります。今日は参議院選挙でありますが、現在の政治政党を見ても分かる通り、本当に多くの考え方があります。右寄
り、左寄り、という単純な構図ではありません。中道、異端、又、宗教的な見地から政治に関わる政党もあります。それらは相対立するものであり、右の人に
とって左は敵であり、その逆もまた然りであります。中道は中道でどっちからも敵になり得ます。
このように、政治に関わらず、私たち人間の社会は、多くの考え方によって、色々な主義主張によって、味方を作り、そして敵を作るのです。
しかしそう考えるならば、敵がいるということは、我々が生きている証拠という事も出来ましょう。自己主張をし、自分の考えを述べるとき敵が生まれるというのであるならば、それは自分の正しい道をしっかり見据えた時にこそ敵の存在が浮き彫りにされるのであります。
例えばキリスト者として生きる時、私たちには自己主張があります。キリストこそが唯一の救い主である、という主張です。この救いに真剣に向き合い、真剣
にキリスト教信仰に生きる時、そこには自分がそこにあり、自分の生き方がそこにあり、なんぴとにも介入され得ない自らの信念がそこにあるはずです。その時
私たちは、自ずと敵が生み出されるというのであります。神を信じる時、必ずその神を信じない者が現れます。敵がいて当然なのであります。キリスト者である
以上、敵の存在は当然のことなのであります。
しかし聖書は言います。「敵を愛しなさい」と。「敵を憎み、敵を排除し、敵対する者と徹底的に抗戦しなさい」、ではないのです。「敵を愛しなさい」なの
です。そこに私たちは、一つの言葉を思い起こします。敵を救った一人のサマリア人の話です。ルカ福音書10章に示された善きサマリア人の譬えは、「では私
の隣人とは誰ですか」という質問から始まりました。そして主イエスの出した答えが、「ユダヤ人に敵対する者こそがユダヤ人の隣人であり、サマリア人に敵対
する者こそがサマリア人の隣人である」という答えだったのです。
そこには「隣人とはまさに私に敵対する者の事である」と語る聖書のメッセージが込められているのです。隣人とは敵であり、敵とは隣人である。ここに敵と隣人が一つの繋がりを持つのです。
言い換えるならば隣人とは「愛を必要としている人」の事であり、同じように「愛を必要としている人こそが隣人である」と言い換える事も出来るのです。キ
リストを知らない者、それはキリストに敵対するものであるかもしれません。しかしそれはまさしく私たちの隣人であるのです。キリストの福音と愛を知らない
からこそキリストに敵対するのであり、キリストを信じる者に敵対するのであります。
この事は、主イエスがお示しになっている通りであります。主イエスは徴税人と食事をしていると律法学者たちがイエスを批判して「何故罪人と共に食事をす
るのか」と罵りました。しかしイエスは言います「医者を必要とするのは病人である」と。そして彼は、徴税人、娼婦、罪人たちと共に同じ食事の席、つまり同
胞であるという交わりの席に着いたのであります。この主イエスの姿こそ、愛を最も必要としている者に対する行為であるのです。
ここには主イエスの祈りがあります。この人たちを救ってほしいという祈り。この人たちに真の愛を与えてほしいという祈りがあるのです。この祈りがある時、初めて敵が隣人となり、隣人としての敵が敵意を越えて隣人となりうるのであります。
今日の箇所で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われているのは、まさに祈りこそが、敵意を越え、敵を愛する道へと繋がる行為であると伝えます。祈りこそが敵意を越えるのです。
私たちは、「あなたの敵を愛せよ」という壮大な神の言葉に出会う時、気後れし、これは私たちには不可能なのだと感じてしまいます。しかし主は、それでも尚も我々に、敵を愛する仕方を与えて下さるのです。
ドイツの神学者ディートリヒ・ボンへッファーは『キリストに従う』という本、(原題「ナッハフォルゲ」)という本を書いております。この本の中心はマタ
イ福音書の山上の説教の解説でありますが、そこで徹底的にキリストに従うとはどういうことであるかが述べられております。そこで彼は「祈り」と「敵」につ
いて次のように言います。
「祈りにおいて、私たちは敵のも
とに、敵のかたわらに歩み寄るのです。私たちは敵と共に敵のそばで、敵の為に神の御前にいます。とりなしの祈りによって、敵の方に、最後の一歩を踏み出す
なら、敵も私を傷つける事は出来ません。そこで私は、敵の困窮、貧しさについて、神の御前における代理人となるのです」。
このように言っており、祈りによって私たちは敵の傍らに歩み寄る事が出来るのだ、と語るのです。又、同じ本の中で彼は、「信じる事」と「キリストに従う事」を切り離さず、これを実行可能なものとして、次のように語ります。
「信じるならば、第一歩を踏み出
せ!その第一歩がイエス・キリストに通ずるのである。信じないならば、同じく第一歩を踏み出せ。それはあなたに命じられていることである。あなたが信じて
いるかどうかを問う問いは、あなたにゆだねられているのではない。従順の行為こそあなたに命じられているのであって、それは即刻なされるべきものである。
その行為においてこそ、信仰が可能となり、また信仰が現実に存在する状況は与えられるのである」。
これは大変示唆的な言葉であると思います。我々は、聖書に聞く時、どうしても自分本位で考え、又人間レベルの具体性の中だけで捉えてしまい、「神様の命
令は実行不可能だ」と思う事があります。実行不可能な事柄に対して、それでも行えと命令されてもきっと無理でしょう。しかしボンヘッファーは驚く事に、
「それはどちらでもいいことだ」と言っているのです。そしてむしろ私たちに問われていることは、「従いなさい」ということであると語るのです。キリストに
「従う」という行為、それはたとえ疑いがあってもできることなのであると。その「従う」という行為の中で、むしろ「信仰」が可能になっていくのでありま
す。
私たちは聖書の中でキリストの言葉を知り、聖書の中のキリストに触れることが出来ます。しかしそのお語りになる事、とりわけ敵を愛しなさい、という究極
的命題に対して、尻込みしてしまいます。何故なら私たちには赦せない敵がいるからです。私たち自身に敵対する者であれ、キリストに敵対する者であれ、私た
ちの周りには多くの敵がいるのです。しかし忘れてはならない事は、同時にここには「祈り」があるのです。キリストが十字架で祈られたあの祈り。例え自分が
罪を犯されたとしても、熱心に祈ったあの祈り。「主よ彼らの罪をお赦し下さい」という執り成しが私たちの内に起こるならば、それは敵を愛するための、敵意
を越える事になると思うのです。
「私」という不完全な者に対し、「敵」という不完全な第二者が敵対してくるとき、その間にキリストがお立ちになって下さるという確信に基づいて祈る事が
出来ます。「私とあの人の間に、主よ、あなたがお立ち下さい」、と祈る事が出来るのです。「私はあの人が赦せません。しかしあの赦せないあの人と、この赦
す事の出来ない私の間をあなたが執り成して下さい、仲保して下さい」、という祈りが「キリストにおいて」成り立つのであります。
先ほどもお話し致しました黒人の公民権運動の指導者であるマーティン・ルーサー・キングは、この公民権運動に携わる中で、『汝の敵を愛せよ』という有名な本を書きました。その一節で次のように語っています。
『われわれは、敵意を取り除くことによって、敵を取り除くことができるのである。
赦しは一時的な行為ではなく、永続的な態度である。神は、われわれが欲しているような横暴な方法で悪を処理するならば、おそらく、その究極的な目的を台無
しにしてしまうであろう。武装しない愛こそが世界最強の軍隊である。愛する者は、究極的な現実の意味を解く鍵を発見しているのだ。勇気は、生の曖昧さにも
かかわらず自己を肯定する生の力である。』
「あなたの敵を愛せよ」。この実行不可能と思われる事は、しかしこの世の中で、キリストにおいて、キリストの十字架の贖いにおいて既に実現されていま
す。なぜなら、神に敵対する私たちこそが、神に愛されているからです。神の隣人として、主イエスをたまわり、その主イエスから与えられる大いなる愛によっ
て私たちの救いがあるからです。私たちには愛が必要でありました。神に敵対する者でありながら、同時に神の愛が必要でありました。その私たちに与えられた
大いなる愛。神に敵対する私たちに与えられた愛。そのキリストの十字架の救いを、今一度覚えたいのであります。私たちは、キリストの愛によって敵意を取り
除く事が出来るのです。私と敵との間に、主イエスキリストの仲保がなければ、敵を愛する事など出来ないのです。今日の御言葉は、決して理想が語られている
のではなく、私たちに行う事の出来る命令として、キリストによってのみ可能となる御言葉が与えられているのであります。「神の敵である私たちは既に愛され
ている」。そこから私たちの敵を愛するという歩みが始まるのです。
祈りましょう。
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