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2013年秋の特別伝道礼
拝(2013年9月29日) |
2013年9月29日(秋の特別伝道礼拝説教) 房総君津教会牧師 南 純先生
「曲がった時代の中で」
申命記32章1~6節、フィリピ2章12~18節
きょうの説教の題には「曲がった時代の中で」と付けました。しかし、それは今の時代を特別に批判するためではありません。この題は先程司会者に読んでい
ただいた聖書に出てくる言葉なのです。ですから、この「曲がった時代」とは今から2000年も前の時代を指している言葉なのです。
しかし、それにも拘らず、この「曲がった時代」という言葉は今の時代にも実感されるのではないでしょうか。「曲がった」という言葉の前には、「よこしま
な」という言葉もついております。不義不正を意味しますが、わが国でも周辺世界でも今なお不義不正が横行し、争いが絶えません。しかも、いつ何が起こるか
分からないような時代であります。前方に何ら希望が見えて来ないような時代ではないでしょうか。前に向かって全力を傾けるだけの力が湧いて来ないという嘆
きも聞こえてまいります。
そのような「よこしまな曲がった時代の中で」、このフィリピの信徒への手紙の著者パウロは「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい」と呼びかけておりま
す。なぜでしょうか。きょうは、そのことを様々な角度から、とくに聖書と歴史の中から時代の問題を取り上げてみたいと思います。
まず最初に、きょうの聖書の中からですが、その17節に「たとえわたしの血が注がれるとしても」という言葉が出てきます。その前に「いけにえ」という言
葉がありますように、それは明らかに犠牲として流される血を意味しております。別な言葉で言えば、「わたしが殉教して、犠牲の血を流すとしても」「わたし
は喜びます」と、その覚悟を語っているわけであります。
パウロが生きていた2000年前の時代は、すでにキリスト教徒に対する迫害や殉教が始まっておりました。その意味では、確かに「よこしまな曲がった時
代」でありました。実際に、パウロは様々な迫害を受けました。やはり彼が書きましたコリントの信徒への手紙Ⅱの11章で、それらを数え上げております。
「ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げ付けられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に
漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上での難、偽の兄弟たちからの難
に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と、果てしなく続いており
ます。
そして、遂には囚われて、ローマに送られ、多分有名なネロ皇帝の迫害によって殉教の死を遂げたと考えられております。もしそうであれば、「恐れおののき
つつ自分の救いの達成に努めなさい」、「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい」と勧めたパウロ自身の人生はあまりにも悲劇的ではないでしょうか。彼の人
生は「よこしまな曲がった時代」に翻弄されたようにも思われるからであります。
そこで、今度はもう少し近い歴史上の人物を取り上げてみたいと思います。それはアメリカ合衆国南部のアラバマ州の牧師の家庭に生まれ、彼自身も牧師と
なったマルティン・ル-サ-・キング・ジュニアという人物であります。ジュニアというのは、父の名前を継いで牧師になったという意味で二世だからでありま
す。
彼は1929年の生まれですから、生きていれば84歳ということになりますが、ご承知のように、1968年に39歳の若さで暗殺されてしまいました。それは彼が黒人の人種差別を撤廃するためのいわゆる公民権運動に深く関わったためであります。
アメリカ、とくに南部はアフリカから連れて来られた黒人奴隷の労働の上に成り立っておりました。確かに、1862年9月のリンカ-ン大統領による「奴隷
解放宣言」によって、黒人たちは解放されたのであります。しかし、実際上の差別は続き、公民権、市民権は制限されておりました。彼は6歳まで仲良く遊んで
いた近所の友達の母親から「今後は黒人とは一緒に遊ばせません」と絶交宣言され、始めて人種差別を実感したと言われます。その当時は、学校やトイレ、プー
ルなどの公共施設でもバスなどの公共交通機関でも、白人用と非白人用に区別されておりました。彼自身も白人によってバスから追い出されるような経験をして
いくのであります。
そのような中で、牧師として働きはじめたアラバマ州モンゴメリ-市において、彼は1955年に起こった差別問題に抗議して「バス・ボイコット運動」を指
導するようになります。そして、翌年には連邦最高裁判所から「バス車内人種分離法」の違憲判決を勝ち取ります。その結果、彼はわずか26歳にして一躍全米
各地の公民権運動の指導者として迎えられることになります。
アメリカは1960年からベトナム戦争に参戦し、次第に深入りしていく中で、黒人はその最前線に送り込まれ、多くの犠牲者を出すにいたります。キング牧
師は非暴力抵抗という方法で公民権運動を指導し、ついに1963年8月28日、全米各地から20万とも25万とも言われる人々をワシントンのリンカ-ン記
念堂の前に集めるに至りました。これは「ワシントン大行進」と知られる出来事であります。
この時代の大統領はジョン・F・ケネディでした。ケネディはこの公民権運動に協力的でしたが、その3か月後の1963年11月22日に凶弾に倒されてし
まいます。しかし、彼の後継者ジョンソン大統領のもとで、1964年7月2日、ついに「公民権法」が制定されて、建国から200年の時を経て人種差別が法
的に撤廃されたのであります。
そして、奴隷解放宣言をなしたリンカ-ン大統領の生誕200年目に当たる2009年にはアメリカ人とアフリカのケニヤ人の混血である現オバマ大統領が誕
生することになります。大統領はWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)からという伝統は崩れ、「公民権法」の制定から45年目にして、アメ
リカの歴史は大きく変わったのであります。わたしはちょうどオバマ大統領の誕生の年にアメリカ合衆国長老教会の総会に招かれて出席しましたが、その総会議
長にもフィリピン系のアメリカ人が選ばれ、その変貌を目の当たりにしてきました。
ところで、キング牧師がワシントン大行進で大群衆を前に語ったのが、「わたしには夢がある」という有名な演説であります。ケネディ大統領の就任演説と共に、現代アメリカの最も優れた演説とされ、今でもユ-チュ-ブでその実況中継を見ることができます。
この「わたしには夢がある」という題はどうやら後から付けられたもののようでありますが、その言葉が始まる部分からは原稿なしの即興演説だったことも分かります。しかし、大変力強く、印象的であります。
彼は演説の初めの方で、「私たちが私たちの首都にやって来たのは、ある意味では小切手を現金に換えるためです」と言います。つまり、奴隷解放宣言によっ
て約束された手形を実現するためだと言うのです。そして、この国は黒人たちに不渡り小切手を与えているが、まだ正義の銀行は破産していないと言って、その
約束を実現するように強く訴えて行きます。
さらに、「1963年は終りではなく、始まりなのだ」と言い、「不当な苦しみは贖われると信じて闘い続けて下さい」と呼びかけ、それぞれ自分たちの州に戻って行くよう促しております。
そして、「絶望の谷をさまようのはもう止めましょう。わたしたちはきょうも明日も様々な困難に直面しているが、それでもわたしにはなお一つの夢がある」
と語り、「わたしには夢がある」という即興演説が始まってまいります。ここでは全部を紹介できませんが、最初の二つだけを紹介しておきます。
「わたしには夢がある。いつの日かこの国が立上がり、『我々はすべての人が平等に造られていることを、自明の真理と信じる』というこの国の独立宣言の真
の意味を実現させる、という夢だ」 「わたしには夢がある。いつの日か、ジョ-ジア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子
孫たちが兄弟姉妹として一緒の食卓に就くことができるという夢だ」と続いてゆきます。
このワシントン大行進の翌年、先程述べましたように、「公民権法」が制定され、それによって、キング牧師の「夢」は大きく前進するのであります。しか
し、先程述べましたように、ベトナム戦争では相変わらず黒人たちがその最前線で多くの犠牲者を出し続けておりました。彼は公民権の徹底を求めると共に、ベ
トナム反戦運動にも関わってまいります。
そのような活動が評価され、彼は1964年には35歳の若さで、ノーベル平和賞を受けております。その最年少記録は今も破られていないのではないでしょうか。
ところが、その4年後にテネシー州メンフィスで演説中に暗殺されてしまいます。演説と言っても、彼は牧師ですから説教でもありますが、その暗殺直前の説教が残っております。それは出エジプトを導いたモーセの死を思わせるものであります(申命記34章参照)。
「前途にはなお困難な日々が待ち受けています。しかし、もうどうでも良いのです。わたしは山の頂に登ってきたからです。皆さんと同じように、わたしも長
生きがしたいのです。長生きするのも悪くないが、今のわたしにはどうでも良いのです。わたしは神の意志を実現したいだけなのです。神はわたしが山に登るの
を許され、わたしはその頂から約束の地を見たのです。
わたしは皆さんと一緒に行けないかも知れないが、わたしたちは一つの民として必ずや約束の地に到達することでしょう。今夜、わたしは幸せで
す。何の心配も恐れもありません。神の再臨の栄光を見たからです」。この説教は彼の死を予感させますが、彼の心には信仰者としての平和と喜びが満ちている
ように思われます。
さて、キング牧師について多く語ってきましたが、最後に「ワシントン大行進」で歌われ、彼自身も歌い、しばしば取り上げた黒人霊歌「勝利を望み」に触れ
ておきたいと思います。この説教の後で歌う讃美歌471番がそれでありますが、英語ではWe shall
overcomeとなっています。直訳すると「われらは必ず打ち勝つ」とでも訳すべきでしょうか。この歌はもともとアフリカからアメリカに渡る奴隷船の中
で歌われた労働の歌だったと言われますが、その後も歌い継がれ、やがて黒人霊歌として定着したようであります。
しかし、この歌が世界中に広まったのは、これが公民権運動のテーマ・ソングとし、やがてベトナム反戦歌として歌われるようになったからであります。また、これを広めるのに一役買ったのは、女性フォークシンガ-・ジョ-ン・バエズであります。
彼女はワシントン大行進の参加者にこの「勝利を望み」の合唱を指導したと言われております。彼女はメキシコ系のアメリカ人、つまりスペイン系の出身で、絶
対平和主義を唱えるクエ-カ-派のクリスチャンでもあります。日本にも1967年にやってきて、ちょうど安保闘争の最中でありますが、この「勝利を望み」
や「ドナ・ドナ・ド-ナ」という歌でフォークソング・ブ-ムを巻き起こしております。彼女は1941年の生まれですから、72歳位で、現在でもまだ歌い続
けているようであります。
しかし、今肝心なのはバエズ自身ではなくて、この黒人霊歌「勝利を望み」の歌詞であります。「ああ、その日を信じて、われらは進もう」という言葉が繰り
返されておりますが、原文では「心の奥底では、いつの日か、われわれは必ず打ち勝つことを信じている」とあります。その希望が繰り返されているのでありま
す。それはまさに「よこしまな曲がった時代の中で」歌われるにふさわしい歌でありますし、また実際に人々の心を捕らえ、時代を大きく変えてきた歌でありま
す。後で、この讃美歌の歌詞をじっくり味わいながら一緒に歌っていただきたいと思います。
最後に、この「勝利を望み」の希望は何に根ざしているかに触れておきたいと思います。それは単なるわたしたち人間の期待や願望にとどまりません。
キング牧師は最後に「神はわたしが山に登るのを許し、約束の地を見せてくれた」と語りました。ちょうどモーセが約束の地に入ることは出来なかったけれども、ピスガの山の頂上から約束の地を望み見ることができたようにであります。
キング牧師は「よこしまで曲がった時代の中で」、その希望を銃弾によって打ち砕かれてしまったのでありましょうか。そうではありません。きょうの聖書の
言葉で言えば、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」と知り、彼はその「心の奥底で、いつの日か、必ず打ち勝つ
ことを信じて」いたのであります。そして、昔も今も変わらず、わたしたちの希望はその一点に根ざしているのであります。
祈りましょう。
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