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 2014年秋の特別伝道礼 拝(2014年9月28日)

2014年9月28日(秋の特別伝道礼拝説教)  ドイツ改革教会エッツアルト・ヘアリン牧師
「ペ ト ロ の 漁 り(すなどり)」
     
ルカによる福音書 5章 1-11節

 親愛なる教会のみなさん!
 一昨日、わたしたちは東京につきました。遠くから海上に無数の船、魚捕りの多くの船が見えました。多くの人々の仕事場、暮らしの基盤です。わたしは、東 フリースラント、ドイツの北海沿岸の小さな地方から来ました。北海というのは、北大西洋の一部です。そこでも数世紀以来、魚捕りで生活しています。小さな 内海のゲネサレト湖での人々の状況は同じです。魚捕りというのは、ここでもそれ自身の決まり、法則に従います。漁獲は漁師とその家族の生活にとっての必要 条件です。どこでも人は海で生活しています。

 さて、われわれの聖書のテキストに向いましょう。このテキストは、とり返すことの出来る出来事を伝えていますが、予期できない物語とも混じり合っていま す。ゲネサレト湖の夜明けの中、漁師たちは舟で夜の漁から戻ってきて、次の仕事を続ける事ができるように網を洗っています。その顔からは、不漁と失望が伺 われます。生活の基盤としての海が疑問となるように思われるのです。つまり、「一晩中海に出ても、またほとんど何も捕れないかも知れない。もしこれが続け ば、われわれは何で生活し、どうして家族を養っていけるのか? その生活(その仕事)も、ただ虚しい労苦に過ぎないのではなかろうか。」(詩編90編をご 覧ください。) われわれの誰もがそうした虚しい場面を体験してきました。成果のない仕事です。 この漁師たちというのは後の弟子たち、シモン・ペトロ、 ヨハネ、ヤコブですが、かれらはこの朝は何も手にするものなくいました。ただ、虚しさのしるしの穴のあいた網があるだけで、すべてが無汰でした。

 さて、湖には一人の巡回の説教師が現われます。人々はその名前を知っています。ナザレのイエスです。彼は、大勢の人々を従えています。すでに早朝からで す。人々は彼に向かって押しかけ、人々はその話に夢中になっています。「ナザレのイエスが口を開き説教すると、心は弾み、命が心に沁みこんでくる。そし て、本当に満たされる。」と、人々が言っているのが聞こえるのです。その時に、このイエスがゲネサレト湖にやって来てこの漁師たちを見つめ、彼らがどうい う状況なのかその顔色から読み取られるのです。彼は思いがけなくも彼らの一人に予期もしない名前を挙げて話しかけるのです。「シモン、少し沖へ漕ぎ出して くれないか。」親愛なる教会のみなさん、当時はそうでしたし今も事情は同じです。つまり人々は神の言葉、すなわち、われわれに無条件に関わり、われわれが 信頼して生き、いつの日か安心して死ぬことができるために聞かなければならないものに飢えているのです。それは永遠の、つまり意味ある生活への問いであ り、あの富める青年やその他の者たちもイエスに質問した問題なのです。どれほど多くの人々がそれを求め、どれほど多くの人々が誤った道や脇道に入り込んで いることでしょう。また、心の底ではただ一つのこと、つまり一つの支え、確かな土台、生活のための生ける神を求めていることでしょう。イエスの問いにシモ ンは答えました。「言うまでもありません私がします。」小さな親切、小さな心遣いですが、それはこのシモンが完全に神に近づく一歩なのです。
毎日の生活の中で当たり前の事、つまり丁寧なしぐさ、救われるような言葉、握手、友人としての微笑、訪問、慈善のための助けを必要とする人々のための寄 付、これらがそこで神自身がわれわれを迎えてくれる一歩となるのですが、おそらくわれわれにはほとんど意識されないでしょう。つまり、舟を漕ぎ出すのはシ モンにとっては何の問題もありません。しかしそれが報いられるのです。彼の舟はイエスのための説教壇となりイエスは説教するのです。人々はただ驚くばかり です。というのは、聞く事、信頼する事、罪の告白、従う事といった言葉と結び付く奇跡物語が何回も繰り広げられるからです。

 最初の奇跡はこれです。シモンが耳を傾け始めます。つまり、シモンは神がどんなに近くにいるのか全く知らないのです。お前はもしかすれば神が本当にお前 を捜しているかを全く知らないのかもしれないが、神はとっくにお前に向かっているのだ!そして実際お前に語りかけているのだ!わかるか?

 次の奇跡はこれです。シモンはイエスを説教の後もう一度岸へ戻すことを見込んでいます。だから彼は自分の耳を信ずることができません。イエスが改めて彼 に語りかけたからです。「沖に漕ぎ出して網を降ろしなさい。」と、本来ならシモンは反対しなければならなかったでしょう。「真昼の真ん中にわれわれ漁師は 漁には出ません。それは全く意味のないものです。」と、しかし彼は「先生、私たちは夜通し苦労しましたが何も捕れませんでした。」と言っただけです。シモ ンは信頼を抱き始めています。「お言葉ですから網を降ろしてみましょう。」これが第二の奇跡です。彼の専門の知識と職業上の経験は明らかに反対であるにも 関わらずシモンはそうするのです。このように、聞くということは更に前進するのです。何が大切なことを語らせ、信頼させるのです。親愛なる教会のみなさ ん。神に向かい合ってわれわれが質問だらけ疑いだらけで、そして神はわれわれには捉えることができないと思われるときにさえも、われわれが聞くことがで き、受け入れることのできる神の語りかけは、変わることなく続き、大切なことを語り、そしてまた結果を伴うのです。「しかし、お言葉ですから。」私は信 じ、信頼し、神に身を委ね、また、神がわたしを正しく導かれることに身を委ねます。それに反対するあらゆる事にも拘らず「わたしはそれでもなおあなたのも とに留まります!」と、わたしは告白します。(詩編73をご覧ください。)シモンは大切なことを自分に語らせ、そしてそれが贈られるのです。親愛なる教会 のみなさん。われわれの心は偉大な神がいつわれわれに出会い、贈り物をくださるのか捉えることができないのです。「神は偉大な方ですから、最も愛する者に 大きな贈り物を下さるのです。われわれ貧しい者たちは何と小さな心しか持っていないことでしょうか!

 次の奇跡はこれです。シモンの罪の告白がこの贈り物に続いていることです。その逆ではありません。贈られた魚の獲物の中でシモンは気付いています。ここ には神が働いておられる。これをなして下さったのは神のみで、それ以外一体誰がなしえたのであろうか。彼は驚いてひれ伏します。「主よ、わたしから離れて ください。わたしは罪深い者なのです。」シモンの罪は、偉大な神に大きなことを何も期待しないことにあります。彼は、その小さな心で小さな神を認めるだけ で、神からは多くの事をなんら期待しないのです。罪とは、ここでは何も期待しないこと、信用しないこと。信じ信頼しないこと。すなわち背を向けたことで す。親愛なる教会のみなさん、生活のさなかで、日常のさなかで全く予期せずそれは起こります。その時に神が介入し、その時に神が現われ、その時には一瞬の うちにすべてのものが全く変わり、その時には私たちは新しい人間になるのです。

 最後の奇跡はこれです。「シモンお前は今からあと、人間を漁どる。お前は人間の漁師となり神のために人間を獲得することになるのだ!」そしてシモンは、 すべてのものをそこにそのままにして彼にとって今まで重要であったすべてのものを手離して、彼はヨハネ、ヤコブと共に「お言葉ですから(お言葉に従っ て)」イエスに従うのです。

 四つの奇跡とはこれです。聞くこと、自分に大切なことと語らせること、信頼すること、罪を告白すること。したがって行動すること。これです。親愛なる教 会のみなさん。この四つの奇跡は、礼拝の基本的な要素を反映しています。礼拝では神がわれわれにその言葉をもって、その語りをもって、われわれ人間に仕え てくださいます。親愛なる教会のみなさん。キリスト者の漁どりとは礼拝です。ここでわれわれは、語りかけられ。ここでわれわれは聞き。われわれに大切なこ とを語られ。ここでわれわれは、われわれの罪を告白し。ここでわれわれは従い。ここでわれわれは行動します。「神の網」によって捕らわれない者は、別の網 によって捕らわれ続けます。しかし神と関係し神を信頼する者はその生活の中で驚くべき体験をし、信仰の贈り物を豊かに与えられ、その確信を放射し、人生の 喜びと落ち着きを放射するのです。 
アーメン

訳 房総君津教会牧師 菊地 信光